「獲得する」から「手放す」へ

 私はゲイで“あとに残すもの”がありませんから、無責任なことばかり言います。はい。
 幸い災害からも免れましたから、暖かい部屋の中で好き勝手に書けます。はい。
 そういったご批判を承知の上で、今回の震災を通じて私が思ったことを今のうちにここで綴っておきたい、と思っているのです。恥ずかしいくらいにエラソーなことをいっぱい書きますので、興味のない方は読み飛ばしてくださいませ(笑)。。。
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 被災された方々は、不自由な避難所生活の中で、お互いに助け合い譲り合いながら今も頑張っておられます。

 首都に住んでいて幸いにも被災から免れた私たちは、被災された人々の姿を報道で目にするたび、さして不便もなく暮らしていることにどこか後ろめたい気持ちになり、募金をしたり物資を提供したり少しでも被災者のために役に立つことで、その後ろめたさを紛らそうとしているように見えます。

 しかしその一方で、私たちは水や食料や燃料の買出しも忘れません。いざというとき、自分たちが生き残るための備えとして。

 電力会社はと言えば、原子炉を廃炉にする損失の大きさを恐れるあまり、重要な初期対応に二の足を踏んだ結果、その後の処置は後手後手に回り、自社はおろか周辺地域の人々の生活を脅かすほどの甚大な被害を及ぼすことになりました。
 一方では、計画停電と銘打ち“ご迷惑をおかけして申し訳ありません”とさかんにTVスポットを流して謝りながらも、原発が動かないことでどれだけ不便になるか、まるで私たちをモルモットに社会実験をしているようにも見えます。(本来なら彼らは、残されたどの発電所にどれだけ電力供給があり、休止した発電所による影響がどれほどなのか、すべて明らかにした上で、だから何をどれだけ節電すれば良いのか、具体的データを早く示すべきなのです。)おまけに、最後には電気料金を上げてツケを庶民に回そうだなんてのたまっている神経に、呆れてしまいます。

 しかし仮にいま私が、危険な原発は全部止めろ!などと下手に叫べば、「非現実的だ」「成長が止まって景気が悪くなる」「そういう自分も快適な生活を享受してきた筈だろう」、果ては「もっとしっかり日本の将来を考えろ」などと“現実派”の皆さんからお叱りを受けてしまいます。そういった考えの方が多いこともよくわかっています。

 ところで先日、たまたま出張先で今回の地震に遭い、避難所で数日過ごしたあとに命からがら帰京した友人が、ネットでこんなことを呟きました。「被災地で助け合う人々の美しさに触れたあとに東京に戻ってきたら、人間の醜さばかりが目に付いて、生きていくのがイヤになった。」と。
 またその友人はこんなことも呟きます。「メールが繋がったら、安否確認のメールがいっぱい入っていた。でも一通り返事をしたら、その後はほとんど誰からも気遣ってくれるようなメールが来なくなって。みんなワイドショー的興味だったのかってがっかりしちゃったよ」と。

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 さて、これらのバラバラなエピソードから見えてくるもの。

それは、
私たちは、獲得することを善しとするパワー・ゲームから、いよいよ脱却すべきなのかもしれない。」
ということ。

 つまりこれからは、まず手放すこと、与えることを善しとする社会に移行しなければならないのではないかということです。少し、抹香くさいでしょうか。。。でも私はこれからの日本には、それが必要になってくるのではないかと。そんな風に感じているんです。

 被災地では、津波によって今まで獲得してきた物があっけなくも全て流されてしまった人々が大勢います。そこでは家族、同郷の人々が与え合い助け合っていかなければ、そして他の地域からの援助がなければ、復興どころか、避難所生活さえ成り立たないでしょう。何かを奪い合っている場合ではない。それは今、既に現実として起きていることです。
 たとえばもし災害を免れた地域に住んでいて、自分が生き残るために買占めに走っている人がいるならば、まずは買い占めたものがどれほど非常時に役立つのか、冷静に考えてみた方がいい。「社会生活」なしに、自分や家族だけが数日生き伸びたとしても、どれだけ意味があるのか。買占めるなら、それはまず「地域のために」であるべきだと思うのです。
 いままで何の気なしに享受してきた便利で快適な生活にしても、原発事故によって否応なく見直しが迫られています。長い時間をかけた経済発展によって獲得してきた国民の生活水準の確保さえ、あの1日にして、危うくなってきている。これも今、現実に起きていることです。

 私たちの生き方も、きっとそうなのです。パワー・ゲームから脱却することが大切。それには良い意味で、他者に過度の期待を懸けないことが肝心だと思うのです。何かを他者から得よう、獲得しようとすると、それが得られないときに辛くなるだけですよね。それよりも、自分が他の人より沢山持っていたり、上手に出来ることがあれば、とにかく他の人に与えてしまう。自分から手放すようにする。そして、他者からご好意を頂いたときは素直に感謝してその好意を受ける。お互いゼロとゼロの関係。そうしていけば、あら不思議、自然に“助け合い”が出来てしまうのです(笑)。
 先の友人のメールの件で言えば、たとえワイドショー的興味であっても、安否を気にかけてくれた人が少なからずいたことに焦点を当てれば、それはとても凄いことで“無事戻ったよ、ありがとう”と彼の方から皆に連絡を取るだけで良かったはずなんですね。(友人にはそのことは言っていませんが。)自分から謙虚な働きかけをするだけで、人間関係はかなり変わるのです。その友人が不快に感じたというエピソードも、一種のパワー・ゲームに囚われた典型例だったのかもしれませんね。

 つまり、パワー・ゲームを続けている限り、一方はパワーをひた隠し、もう一方は必要以上にパワーを見せびらかせて隠している相手からムリに奪おうとする、この世は限られたパイの奪い合いになってしまうのです。
 原発の例で言えば、日本の経済成長とあなたがたの豊かな生活のために、安定した電力供給は不可欠なんだ!だから原発は多少キケンでも必要なんだよ!ということを主張するのがそれです。便利さの強要でお金と一緒に安全までも奪う。
 そうではなくて、奪い合っているパワーをお互いに手放して差し出しあう。そうすれば、もしかすると隠されていたお互いのパワーがどんどん溢れ出て、予想を遥かに超えた力が生まれるかもしれません。

 電力会社は、まずは限界を正直に認めてとにかく放射能被害をこれ以上広げないよう情報を公開し、国内外のあらゆる機関に助けを求めなければいけません。同時に隣の(関西の)電力会社から電力の提供を受ける努力をし、国民にはより具体的で恒久的な節電の協力を呼びかけ、たとえ薄利であっても家庭の太陽光発電の導入を積極的に薦めていく、また工場には自家発電を薦める、などして自ら原子力依存からの脱却の方向を模索していく。自分たちがどんどんパワーをつけていって巨大化していくパワー・ゲームはもう諦めて、すぐに止めるべきです。

 そして。菅政権の閣僚たち。自分たちの無能を素直に認め、権力(パワー)を手放して一切無駄な口出しをせず、現場や民間レベルでの復興支援がとにかくスムーズに進むよう財政支援、税制支援のみに注力する。あとは原発の処理。その方がむしろ、物事が早く進むと思います。
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 いま、震災を機に各地で起こり始めている、助け合いの心。そこから大きな何かが生まれる予感がして、何だかエラそうに、大仰なことを書いてしまいました。ついイイ気になってしまって。(苦笑)
 でもこれが、私の理想なのです。