メモランダム20180805〜ワタシは「生産性なし?」。でも、人として、生きてます(笑)

 とある自民党議員が保守系雑誌に投稿したLGBTに関する文章が話題になっている折、火に油を注ぐかのごとく、同党の別の議員が、テレビで失言をしました。
自民・杉田氏寄稿に批判相次ぐ LGBT「生産性ない」
 →https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33618520R30C18A7PP8000/ 
LGBTに冷たい自民 謝罪、撤回求めず口頭指導
 →http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201808/CK2018080302000146.html
 これがたぶん、“サイレントマジョリティ”の見解なのかもな?と思っています。ワタシ。
 彼らに対する党幹部の甘々な対応から見ても明らかですし、任期中に少しでも爪痕を残したい若手議員からすれば、保守ガチガチのいまの政権与党の中で認められるには、世論を騒がせるような(しかし政権のホンネにおもねるような)ことを投げかけて自己アピール・点数稼ぎをしたかったのでしょう。バカですね。とは言え、これは少なくない人達を喜ばせるホンネには違いないようです。
 ですからこのニュースを耳にして、私は「怒り」よりも「ガッカリ」という気持ちが大きかったです。
 「国民」の仕事を奪うとして移民を排除し、品物の安さが不公平だとして特定の国の輸入品に関税を上乗せする、どこかの国のおかしな大統領と同じだな、なんて。
 異物は排除して、自分たちの考える「純正なもの」だけの社会にしようなどという、狭量かつ偏向した考え方。
 私たちはようやく様々な経験を重ねて、この世界の「多様性」を知り、それを認めて共存していくことの大切さを学んできたはずなのに、その人類の経験をあえて否定しようとするのは、只の「揺り戻し」でしかないと私は信じているのですが、先日、ワタシの職場の管理職会議でダイバーシティの話題になったとき、「この(ダイバーシティの)動きは、いつ、沈静化するんだろうね・・・。」などという発言があって驚いたのですが(つまり一時の“流行”に過ぎないのだということを言いたかった模様。)、世のコンサバなオジサンたちは、もしかするとそんな意識のままなのかも知れません。やれやれです。
 まあある意味、今回問題発言をした議員たちのことも「それはそれでいいんじゃないですか?」として捉えるのが一種の「多様性」を認めることになるのでしょうから(「公人」の発言としては配慮に欠けますけれど)、今回の発言から今私たちがそれぞれ何かを感じ、考えていくことがより重要なことなのかも知れません。
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 ちょっと話はズレますが、最近、こんなことを考えているのです。
 友情と、恋愛感情と、家族愛とは、何が違うのか?ということ。ワタシ、正直その違いがよくわからないのです。
 ここでは、ややこしくなるので例えば職場の同僚など「公」の付き合いの方は外すとして、「私」で付き合っている人たちは、少なくとも「好きだから」自ら交際しているわけで、そこには意識する意識しないにかかわらず「その人への愛情」や「その人を大切に思う気持ち」があるように思うのです。そしてそうした想いの強さと、同性か・異性か・親族か、という組み合わせの中でこれは「友情だ」「恋愛だ」「家族愛だ」と私たちは区別しているに過ぎないのかも、と。実は、その本質は同じものなのではないか、と。
 そして、多様化が受け入れられる中で、その組み合わせも多様化していて、それこそ『万引き家族』のように血縁関係は全くなくとも家族以上に家族愛に溢れた関係になることもあるでしょうし、異性間での友情が同性同士の友情を超えたものになることも良く聞く話です。ゲイの場合は、「友情」か「恋愛」かという分類さえ曖昧で、肉体的な関係を持ちながらも普段はあくまでも同性の友達同士として付き合い、そこから先の私生活の部分までは曝け出すことをしない、なんてことも普通のことです。ただそうした場合も「相手のことを大切に思っている」という想いが根底に無ければ、友情は成り立たない。それが無いと、いくら肉体関係があっても決して長続きしません。
 “はい。いま付き合っている人は、私と同性で、恋人であり、時に家族のようであり、そして大切な友達です。一言で言えば、「ワタシのとても大切な人」です。”
 この、一人の“ひと”として自然に感じていることを、感覚の違う第三者から「おかしい」とか「生産性がない」とか「趣味でしかない」とか言われたとしても、それでこの思いを変えられるわけでもないし、変える必要もない、ただそれだけのことなのでしょうね。