いきなりジェンダー論~人間って面倒臭い

 先日、職場の歓迎会がありまして。直属の上司ではないけれど管理職の女性が異動してきたので、挨拶しておこうと思ってワタシ、自己紹介に絡めて「社交辞令」をテキトーに重ねていたのです。お酒が回っていたこともあって、普段は口が重いワタシも、そこそこ人あたり良くお話が出来て、さあ、席を離れましょうと、まとめの挨拶に入ったところで、思わぬ反応がありまして。

  ~会話を再現します~

ワタシ「この職場、男女比で言うと女性が多いのに、管理職は男性ばかりなので、バランスが悪いと常々問題提起されて来たんですね。是非これから、女性ならではの視点で、足りない部分がありましたらご指導お願いします。

女性管理職(表情がガラッと変わって)「いいえ! 私、今まで、男女の性別を意識して仕事をしてきたことはありませんし、これからもそんなつもりはありません。だから、そのようなことを言われたくありません。

ワタシ「そ、そうですか(大汗)。と、とても失礼なことを申し上げてしまいました。すみません…。

 そう、それがその方のプライドだったのですね。そのトリガーをワタシ、引いてしまったようなのです。

 感じ方や反応は色々ですからね。ここをブレイクしてわかり合っていくのが、理想的な人間関係なのでしょうけどね。彼女がそういう考えに至ったのにはそれなりに理由となるエピソードもあったのでしょうから、そこに踏み入って、違った価値観を受け入れて、わかり合う。インターナショナルな基準に照らせばそれも確かに必要なのかも。そう、思いかけて。

 いえいえ!

 ワタシにはそんなこと、面倒くさいだけですわ。この狭い日本で、それも、顔合わせ目的の飲み会の席で、相手とぶつかってまで自分の価値観を通す必要は、果たしてあるのかしら。と。会議で議論するならまだしも、プライベートでは付き合いたくない人種であることには違いありません。

 仮に「この人とは考えが違う」と思ったにしても、その場では相手に合わせて見せながら心の中では「言いたいヤツには言わせておけ」とばかりに突き放して、黙って我が道を行く。クローゼットゲイの私は、そちらを選びますよね。きっと。

 そもそも、人というものはそれぞれに違った考え方や感情をもっているわけですから、それだけで面倒くさいもの。そして、決して自分の期待通りにはならないもの。それはお互い様です。だからこそ、ワタシは余程目に余ることをされたり言われたりしない限りは、文句言いたいことも、敢えて言わないことを選ぶ。言わぬが花、とばかりに。でも彼女は、自分は違うのだと、敢えて言う方を選んだ。どちらが正しいのかはわかりませんが、ワタシにはあのようにして自分を通して生きていく彼女はさぞや大変だろうな、などと思えて仕方ないのです。

 私としてはジェンダー論を戦わせるつもりは全く無かったわけですし、彼女が社内では上位なこともあって、あのときは早々と白旗を上げましたけれど、私の言いたかった「女性ならではの視点」ということさえも「差別よ!」的に否定してしまうのは、やはりどこか違うような気もします。そうしたことを前面に出して(武器にして)活躍している人も少なからずいたりしますからね(ご本人がそれを意識しているか如何にかかわらず、です)。そうした人にとって「女性(男性)ならではの視点」という言葉は、ひとつの誉め言葉にもなったりするわけで、ですから私はあのときに彼女の口から飛び出した言葉に、面食らってしまったわけです。

  とはいえ、後になって少し反省したのですが、そもそも男女間に身体的な部分に由来するもの以外には能力差は無いと言われていますし、ワタシが先のような発言(女性ならではの視点で・・・)を軽々しく言ってしまったことは確かに「無意識の性差別」だったのかもしれない、と。女性を「ひとつの役割」と見立てて一括りにしようとしていたことになるわけですものね。こうした無意識に語られる「常識」が、さまざまな差別を生みだし、差別された(されている)人々を苦しめてきた(いる)、それは確かですから。

 でも・・・でも、です。

 あの女性管理職、せめて「私、あまりそれは得意ではないのだけど、頑張るわ」とか「まずは今の男性管理職の意識改革、しなくちゃね」とか、明るく受け流しつつも相手に刺さる言葉で、あの場をやんわりと収める方法は、きっとあったよね、とも思うのです。

 以上、なんやかんやと考えさせられるエピソードではありました。

 ホント、人間って、面倒くさいですね。

性とジェンダー (別冊日経サイエンス)

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