ナットクいかないこと

 小泉・竹中ラインが強引に進めている、市場原理弱肉強食格差容認社会について、彼らが言っていることで俺にはどうしても腑に落ちないところがあって、それはドコなんだろうと、ずっと考えてたら、昔体験した或ることを思い出した。
 それは、就職間もないバブル真っ盛りの頃だ。独身寮であるものがブームになっていた。それは「×ムウ×イ」。要するにねずみ講だ。俺が仲良くしてた後輩がそれに完全に引っかかっちゃって(本人は本気だったんだけど)、俺の部屋まで押しかけてきて、目の前で×ムウ×イ製品の洗剤やらシャンプーやらのデモンストレーションをやって見せて、最後に小っちゃなホワイトボードで、これを誰かに紹介して売ればいくら儲かります、紹介された人が他に紹介すれば最後にはウン百万円・・・って、目を輝かせて説明されて。その後輩が結構マジメで大人しくて目をかけてたヤツだったから、俺もムゲにできなくてね。成功者の集まりがあるから一緒に行きませんか?バイタリティのある凄い人達ばっかりですよ、なんて誘われたので、その集まりに参加してみたのだ。そうしたら、×ムウ×イで稼げるから会社辞めて海外旅行三昧ですとか、30歳そこそこでベンツを乗り回してますとか、要は今で言うセレブ気取りで自慢話のオンパレード。そんな彼らを憧れの眼差しで見つめる(バカ)後輩・・・。その後、彼の独身寮の部屋は、×ムウ×イから押し付けられた製品のダンボールで、寝る場所も無くなってしまったのは言うまでもない。
 そうなのだ。市場原理弱肉強食格差容認社会に俺が感じるどうしようもない「違和感」は、その×ムウ×イの集いで参加者たちが自慢し合っていた「一歩上のいい生活」「いい物に囲まれたカッコいい生活」を人生の目標にまでしてしまうという、そんな人々への「違和感」だったのだ。
 言うまでもなく、人生の目標は人それぞれだ。少なくとも俺はベンツを欲しいと思わないし、何かのアガリで旅行三昧の生活をしたいとも思わない。ハナっから興味が無いのだから仕方ない。それよりも、人の中で働き、庶民として慎ましく生き、日々の退屈な生活の中で輝く「何か」を見つけながら生きて行きたいのだ。だから、×ムウ×イの集いで誰もが「カネ持ちになること」を人生の普遍的・共通の目的のごとく話し合うのを見て、強い違和感を感じたのだ。
 ×ムウ×イで成功するのはほんの一握りだ。それを目指して日々、友人の部屋のドアを叩く行為は、この際、許すとしよう。でも!小泉・竹中ラインが強引に進めているそれ、市場原理弱肉強食格差容認社会は「一億総×ムウ×イ化」と同じなんだ。つまり前提として、市場で勝ち組を目指すのは国民全員が当然望んでいる(はずの)ことである、という勘違いがら始まっているのだ。そこではカネ持ちになることを自発的に望まなければ、即座に負け組となってしまう。勝負に出なければいつまでたっても「負け」の惨めな生活しかないのだよ、ということだ。慎ましい庶民的な生活を手に入れるにも、まず勝負に手を染めないといけない、そういう社会だ。
 そうなのだ。その前に×ムウ×イに入ることを断る、という当然の選択権が認められない社会になっていくことを意味するのだ。腑に落ちない。ナットクいかない。