100万回閲覧記念〜人生の16曲(その2)

 続けさせていただきます。私の半生の伴侶、大好きな曲たち。
 
 大学を卒業して、メーカーの総合職に採用されたのが1988年。同時に京都に配属になって、生まれて初めて東京を離れることになったのね。行ったこともない場所に住むことになって、当然回りはみな知らない人。大きな不安の中で、いつも聴いていたのがこの曲。桑田さんの本分は「切なさ」だと俺は思うのね。溌剌としていながらも切なさ溢れるこの曲、久し振りに聴くといつも、不安の中でがむしゃらに頑張ろうとしていた自分のあの頃の気持ちが蘇ってきて、胸が締め付けられるのだ。桑田佳祐悲しい気持ち」(1987)。

 
 キョンキョンのこの曲は、京都の就職先から帰省する新幹線の中でよく聴いた。ちょっぴりいけずで、でも長く付き合えば付き合うほどに優しさが溢れてくる京都の人々に囲まれて、ホッとした俺。故郷に錦を飾るというほどではないけれど、こんな自分でもやっていけるのだという自信をちょっぴりもらって、この曲の主人公のように「少年の頃のワタシに、大丈夫だと伝えたい」そんな気持ちで聴いていたような気がする。小泉今日子夏のタイムマシーン」(1988)。まさに聴くたびタイムマシーンに乗ってあの頃に戻ってしまう、筒美京平先生作曲の傑作です。

 
 京都での数年間の生活で、なぜか思い出すのがこの曲なのよね。古いものと新しいものが溶け合って、どこの角を曲がってもさりげなく「絵」が出来ている街・京都のセレクトショップで、最初にふと手にしたCDがなぜかマリリン・モンロー。当時住んでいた独身寮に帰ってこの曲を聴いた瞬間、何だかすべてがしっくり来たように思えたものです。「帰らざる河(The River Of No Return)」は、聴くたびに京都の街並みが鮮やかに目に浮かんでくる、「私だけ」の京都ソング。

 
 90年代に入って、会社の異動で東京に帰ってきて、すぐに親とケンカして家を出て独り暮らしを始めたの。それからしばらくはお金もない、友達もいない、おまけに新しい職場でも回りから浮いてしまったりして、本当に辛い時代だった。そんなとき、俺を勇気づけてくれたのがこの2曲。「自分が生まれた意味」と向き合うことで、何とか現実をやり過ごすことができたのは、この時期にこの2曲に出会えたからだと思う。
"生まれてくれてWelcome!"中島みゆき誕生EAST ASIA(→外部リンク
"ほんとうの「ありがとう」を 言える気持ちはどんなだろう?"EPO百年の孤独
百年の孤独
(→外部リンク
 
 さて、俺がゲイである自分を解放することになったのは、2000年に母親を亡くしてからのことなのだけど、実は一人の男性をリアルに「好きだ」と初めて思ったのは、仲の良かった職場の先輩と1996年に山に登ったときのことなのね。この辺の経緯は以前の記事に書いた通りなのだけど、その時の思い出の曲がスピッツの「ロビンソン」。この切なさ。俺にとっては永遠の胸キュンソングです。

 東京に戻ってからも何度も引越しをしてきたワタシなのだけど、その中でも大好きで思い出に残っている土地が、駒込なのです。正確にはソメイヨシノで有名な「染井」の名がついた商店街のはずれにあるアパートに暮らしていたのだけれど、たった一年間しか住まなかったにも関わらず、そこでの生活がとても肌に合って、今でも懐かしく思い出すのだ。結局はその頃に両親が無くなってしまったわけで、そのあたりのエピソードはこちらの過去ログにも書いた通り。もちろん記事にあるように太田さんの「魂のピリオド」もその頃の大切な思い出ソングだけれども、実は駒込のアパート探しのときによく聴いたこの曲の方が、孝行出来なかった両親への思いとともに、なぜかあの頃の濃密な思い出を呼び起こしてくれる。この、枯れて音数の少ないジャズの響きに、年老いた両親のイメージが重なって見えるからなのかも知れません。MJQ人知れずOne Never Knows)」。 

 
 100万ヒット記念企画のトリは、あまりにベタで企画に添い過ぎていて、コッぱずかしいのですけど、このBeatlesの名曲です。聴き始めは「小麦色のマーメイド」で触れた初恋の相手がBeatlesマニアだったので、その彼の影響から。10代の頃から本当に大好きな曲で、年齢を重ねた今、歌詞を噛みしめながら聴くと涙が出て止まらないのです。まさに臨終の床でこの曲を聴けたら、本望ですわ、きっと。ビートルズイン・マイ・ライフ」。

 
 これからもよろしくお願いいたします。