狂おしい想い、蘇る。〜『君の名前で僕を呼んで』

 久しぶりに、胸キュン(苦笑)。こんな安っぽい言葉で表現するのは少し勿体ない気もするのですが、胸がかきむしられるような、あの狂おしい想い、それはやっぱり「胸がキュンとする」という表現がぴったりなわけで、この映画の後半はそれこそ胸キュン(汗)の連続だった私でした。

 1983年夏、北イタリアの避暑地。17歳のエリオは、アメリカからやって来た24歳の大学院生オリヴァーと出会う。彼は大学教授の父の助手で、夏の間をエリオたち家族と暮らす。はじめは自信に満ちたオリヴァーの態度に反発を感じるエリオだったが、まるで不思議な磁石があるように、ふたりは引きつけあったり反発したり、いつしか近づいていく。やがて激しく恋に落ちるふたり。しかし夏の終わりとともにオリヴァーが去る日が近づく……。
(「君の名前で僕を呼んで公式HPより)

 明らかに昨今の映画のトレンドの一つになっている“ゲイ”を題材として、舞台である北イタリアの牧歌的な夏の風景と、その美しさを引き立てる印象的なBGMに彩られた、まさしく文学的な要素に映像的な美しさを織り込んだ高尚な芸術作品としての仕上がりでありながら、その根底には、青年期に誰もが経験したであろう普遍的なエモーション=“胸キュン”がある。ワタシはそんな作品としてこの映画を観ました。アメリカで昨年公開され、こうした映画としては異例の大ヒットを記録したのもうなずける気がしました。
 主人公と同じ17歳のあの頃、私も初恋をしていました。相手は同学年の男性。とは言っても、私がそれを初恋だと自分の中で定義づけたのはずっと後のことで、当時はそうした思いを“単なる”友情であると自分に言い聞かせて、そのように振る舞うことで自分を納得させていたのです。しかし今思えば、単なる友情だとしても、その相手を自分にとってかけがえない存在として想うことには変わりないわけであって、結局はその彼を“好きでたまらない”自分の想いを単純なひとつの言葉に押し込めることなど、到底無理な話なのでした。放課後、一緒に自転車に乗って(時には彼の運転する自転車の後ろに乗せてもらって)予備校に通った高校三年のひと夏。それだけで「自分の青春は、これですべてが揃った」と思えたあのとき。あれはまさにワタシの初恋の瞬間だったのですね。。。
 この映画も(ワタシの青春とは大違いですが(笑))、若く美しいふたりの青年たちのひと夏の出来事、出会いと別れが描かれます。最初はぎこちなく、時は反発をしながらも、お互いにいつの間に心を開き、惹かれ合っていく。そして、結ばれ・・・抱き合い顔を寄せ合いながらオリヴァーが言うのです。「君の名前で僕を呼んでくれないか。

 このフレーズ、狂おしいほどに相手を想う、恋愛の一番燃え上がる瞬間の「一心同体感」を表しているにしては、少し「ん?」と引っかかるところもあって、映画評論家の町山智浩さんの解説によれば、原作者のアンドレ・アシマン氏(NY大の教授)による主人公エリオとオリヴァー、そしてその父への自己投影なのではないか、とのことで、確かにそのように考えると腑に落ちる気がします。それは、年上のオリヴァーが、エリオと結ばれた後にエリオの気持ちを想いやるセリフの中に「オリヴァーもかつて、エリオと同じ経験をしているのでは?」というヒントを与えてくれているし、終始彼らを包容力を持って見守るエリオの父が終盤でエリオに語る言葉(「自分はそのような貴重な機会を逃して後悔している」云々)にも表されているのです。つまりは、アンドレ・アシマン≒エリオ≒オリヴァー≒エリオの父親、そして、観客たちもその延長線上にいるのです、もしかすると。
 そんな意味で、何層もの入れ子状態の結果(苦笑)、この映画は奇跡的に普遍的な“青春期の甘酸っぱい想い”が鮮やかに再現されたのだと思うのです。
 最後の付け足しのようになりますが、出演者たちがとにかく魅力的な映画でもありました。24歳にしては出来上がり過ぎているにせよ、憧れの対象としては完璧なフォルムの“オリヴァー”アーミー・ハマーの美しさは言うまでもなく、それにも増してエリオ役の美少年、ティモシー・シャラメ君は、最初の生意気な雰囲気から次第に「恋する青年」をその眼差しひとつで繊細に紡ぎ分けるような見事な演技で、本当に素晴らしかったです。特にエンディングで、暖炉に向かってのカメラ目線で(家族に背を向けて、というシチュエーションです)ポロリと流す涙に、私は心打たれて立ち上がれませんでした・・。
(もうひとつ付け足しのようになってしまいますが、どこを切っても「絵」になるカメラの構図も際立っていました。)

 あの頃。胸かきむしられる、狂おしい想いをしたことのある、そしてそれを心の奥に大切にしまい続けている、皆さんにオススメ。