負け犬とウェブログの関係

 巷では、「負け犬」という言葉が流行している。件のエッセイについてはまだ読んでいないのでコメントできないが、勝ち負けは、他人との比較の中に生まれるわけで、自分の価値基準を人間社会の常識や慣習の中に求める限り、避けられないものだ。
 オレはオレ流で、などと強がっていても、「意地を通せば窮屈(草枕)」ということになって、生きにくくなるばかりだから、結局、社会一般の価値観なるものに迎合せざるを得ない。その結果、「負け犬」心理も当然、避け難く生まれてくる。(ただ、これには個人差があって、所謂常識的な人ほど、勝ち負けに囚われやすいのかもしれないけど。)
 さて、「自分は負けた」と思えば、何かでその喪失感をカバーしようとするのが人の性(さが)。その行動パターン(遠吠え)としては、①勝ち組のあら探しをして優越感を味わう。②負け犬の自分の中に、勝ち組の部分を探して自らを慰める。③勝負そのものの不当さ、無意味さを訴える。
という3パターン(遠吠え)が考えられる。
 40代の独身男、多分「負け犬」の私は、すべての遠吠えパターンを兼ね備えているなあ。だって、ゲイなのだし。当然、結婚云々で縛られる生活なんてもってのほかだし(①)、若く見られるし友達も多いし(②)、それぞれの人生を比較すること自体無意味だと思っているし(③)。
ってすごい負け犬の遠吠え。
 さて、日記を書く、という行為は、日々の記録という意味以外に、ささやかに「自分を表現する」意味がある。ましてやブログなんて、それを誰かに読んでもらうことが前提なのだから、立派な自己表現手段だ。そしてその表現行為の裏には、少なからず負け犬心理が潜んでいると思う。「こんな自分だけど、誰か、わかってくれるよね?悪くないよね?悪いのはあいつだよね?」みたいな。もちろん、勝ちを続けている人間だって日記を書くだろうし、その場合の日記は「勝ち誇りの表現」になっているのかもしれないが、やはり、その裏にはどこか、完璧でない自分を他人の同意と賞賛によってカバーしようという、負け犬心理が潜んでいるような気がする。
 要は、人は誰でも「負け犬」。あとは感受性の問題なのかもしれない。