憎しみのゆくえ〜仙台トラック暴走事件

 俺は仕事で知的障害者と関わっている。知的障害があるがゆえに、頭で考える何か、ではなく、「自分の心」にとことん正直に生きている人たちだ。彼らと付き合って感じることは、他人に対する憎しみ・憎悪、ましてや人を殺めるに至るような思いは、本質的に人の心の中には存在していないのではないか、ということだ。
 勿論彼らの場合も、知的障害があるから時折、感情を上手に表現することが出来ずに(言葉を持たない人が少なくないのだ)、それが暴力に繋がったりもする。しかし、それは心に溜まったストレスの発露にすぎず、暴力の対象物は本人の意識の外にある。特定の他者(あるいは社会全般)を憎んでそこに向かう暴力とは、根本的に別のものだ。
 心の正直な表現者である彼らは、むしろ、日常の刺激や変化を苦痛と感じ、傍から見たら面白味の無い、決まりきった平穏な毎日をひたすら追及する人がほとんどなのである。究極の平和主義者だ。そこには「好き・嫌い」はあるけれど、特定の人に向けられる「憎しみ」など存在しないのだ。ましてや、人を殺すほど憎むことなど・・・。
 憎しみ・憎悪は、特定の対象物を認識し、それとの関係性の中で生じるものだと思う。つまり、人間社会特有の、それも頭でっかちな人間の中でのみ創造されるもの。
 さて、今回の不快な事件について感じたこと。社会に対する憎しみからと思われる、自暴自棄の結果、許されない反社会的行為を行って他人の命を奪った加害者。詳細はまだ闇の中ではあるが「神のお告げ」「自分も死のうと思った」などと言う裏には、社会的弱者および精神障害者を装う稚拙な意図が感じられる。これを他人事のように、加害者のような人間を生み出してしまった周囲の人々、環境、現代社会システムの批判・分析で片付けるのは簡単だ。また精神異常者として片付けることも簡単だろう。ワイドショーのコメンテーターみたいにね。
 しかし、これは他人事ではないと思う。自分の中にある何ものかに対する憎しみの感情。やもするとそれは頭の中で何度もなぞっては増幅を続けてしまいがちのものである。夫婦、親子、学校、職場etc. 自分は誰かに憎しみを抱いていないか?そしてそれに囚われていないか?自分の中にある憎悪。それぞれがこの「何も生み出さない負のエネルギー」を捨てることが先決ではないか、と思うのだ。特に家庭内から。夫婦・親子から。
 憎しみの解体。それには努力が必要。自己中心的な感情から3人もの命を奪った「彼」に対して、憎い、と俺も思う。しかし、憎い、だけでは何も生まれない。俺たちが、彼を、社会を、つまり自分以外の何かを憎み続ける限り、同様の事件は繰り返されるように感じる。