社会のゆるみ〜尼崎脱線事故

−誰かを恨んだり責めたりしても仕方がない。これは社会のゆるみが生んだ事故だ。−

 JR福知山線の悲惨な事故で娘さんを亡くされた男性が、昨晩のニュースのインタビューでこのようなことを言っていた。昨日の「報道ステーション」では、当該線区は私鉄とJRとの競争激戦区であること、それがゆえにスピードが問われ日本有数の過密ダイヤが組まれていること、そしてそのダイヤを死守すべくJR西日本では乗務員に過剰な負荷をかけていた可能性があること、などを指摘していて興味深かった。今なお事故の真相は明らかになっていないが、一部で言われていた運転士個人の能力や適性の問題だけではなさそう、ということは何となく見えてきたし、ましてやJRの言う「置石」だけが原因でないのは明らかだ。
 さて、報道ステーションがレポートした内容が真実ならば、冒頭の男性の言葉はとても的を得ている。JR西日本の体制(電車の時間を遅らせた等で訓戒を受けた運転士にはいじめにも似た「再教育プログラム」があるらしい)も事実なら薄気味悪いが、それを迫ったのは、元を正せば「便利さ」「効率」を追求し、それが供給されるのを当たり前に思っている我々自身なのかもしれないからだ。時間ぴったりに来て、時間ぴったりに目的地に着く。そしてダイヤ編成は毎年見直され、より便利になっていく。それが当たり前だ、という感覚。
 今の社会はどちらかといえば、緩みというより、余裕が無くなり過ぎてパツンパツンの状態、という感じがする。
 回転がどんどん速くなって、色んなことをやり尽くして、すべてが飽和状態に近づいていて。わずかに残された小さなパイを全員が奪い合っている状態というか。そんな中で、社会の一員として自らもパイを奪うことに集中しすぎ、「尊い命」を軽んじてきてしまったこと(そこが「ゆるみ」なのだ)への強い自戒と後悔の念が、冒頭の男性の言葉に込められているように思える。