「ジェンダーフリー」

 先日、「ジェンダーフリー」について話を聞く機会があった。聞くところによると、その流れから、今、小中学校では、名簿の男女混合化をはじめとして、運動会での徒競走や騎馬戦の男女混合、トイレや更衣室の共用、果てはお互いの性をより良く知ろうとの名目で過激な性教育(模型を使ってコンドームの付け方まで教える)が行われたりしているところまであるらしい。おかしな話だと思う。名簿の男女別が不自然なら、「男女」という単語も「女男」でないと駄目、果てはあいうえお順だって不自然、という風にエスカレートしていくのではないか?
 印象としては、過去に何度となく起こった女性解放運動・ウーマンリブの流れだと思うのだけど、今回のは何と言っても「男女共同参画社会基本法」が制定されたことが大きいようだ。冒頭の教育現場での迷走(と言っていいと思う)も、法を盾に、PTAや教員の過激分子が声を上げた結果なのではないか、と思う(○産党の暗躍も噂されているようで、そうだとしたら気味の悪い話だ)。そもそも、国会では「男女共同参画社会基本法」とジェンダーフリーは分離して考えるべきとの答弁がなされているし(→http://plaza.rakuten.co.jp/mizuhonet/007005)、ジェンダーフリー和製英語らしい)という言葉自体が本来明確に定義できていないようで、これについて熱い議論を交わしている掲示板(→http://www.yomiuri.co.jp/komachi/reader/200307/2003072300107.htm)も、結局は堂々めぐりしている印象がある。これが日本の現状なのだと思う。性に関する考え方は、人間の存在そのものに関わる問題であり、議論すれば百人百様の考えが出てくるのは当たり前だし、そこに分かりにくい和製英語を持ってきたから、余計に混乱を招くのだ。俺は、「男女共同参画基本法」にまで異を唱えるつもりはないが、それとジェンダーフリーが抱き合わせで語られ、一般に広まっていくことにはどこか抵抗がある。教育現場でのジェンダーフリーについては「こういう見方もあるよ」程度の扱いでいいと思う。やりたければ、家庭で、夫婦自らジェンダーフリーなるものを実践して子供に見せれば良いのではないか?学校でいくら教えたって、家にいったん帰れば父親不在・母親は過保護の専業主婦、では、しょうがない。
 ここで推進派の言い分。「そもそも母親が家庭にいる必要は無いじゃない?父親が家庭にいて、母親が働きに出てもいいでしょう?でも、女は賃金低くて、とてもじゃないけど一家は養えない。旦那が家にいたら、近所から白い眼で見られて肩身狭いし。だから、そういうニッポンの社会そのものを変えちゃおうよ。」(ということかな?)
 ちょっと待った!家族の為に安月給でつまらない仕事を一生懸命続けている亭主も大勢いるよ。奥さんからわずかな小遣いもらって。奥さんがそれに代わって、つまらない仕事をして一家を養ってみたい、とでも言うの?はたまた、女性がもっと社会進出すれば、誰もがやりがいのある仕事につける理想社会が実現するとでも言うの?どうも、このジェンダーフリー論には、胡散臭さが漂う。一部の、被差別意識が強いWリブの女性たちが中心になった考えのように思えてくる。一方的な見方のように感じるのだ。
 俺の場合、学校では一貫して男女別の教育を受けてきた。高校は共学でも、体育の授業は男女別。「男らしく・女らしく」の教育だ。幼稚園の連絡帳には、「女の子とばかり遊んでいます。男の子らしくのびのびとしたところを見たい」と書かれた。小学校でも、大人しいとか、男の子らしく積極的になれ、と教師から言われ続けた。クラスメートからも(今ほどひどいイジメではないにしろ)スポーツができないことは明らかに侮蔑の対象だった。らしさ、が求められる社会の中での嫌な思いは数知れない。でも、だからといって、今までの社会のあり方が間違っていた、とか、文化が成熟していない、などと声高に叫ぶ気は毛頭ない。男女の器質的な違いからくる役割分担は厳然としたものがあって、その結果出来上がったのが現代社会なのだ、と考えるのが自然だと思っているから。もしもこの社会の仕組みが、男女について後天的に与えられた固定観念の上に成り立っていて、それらはすべて取っ払おう、という動きがジェンダーフリーであるとしたら、もはや人類文明の発展に寄与すべきものではなく、文化・文明の全否定、果ては破壊につながりかねない怖さがあるように思う。
 ゲイの一人として、より生き易い世の中になってきたこと、それはとてもありがたいことだと思う。(ゲイの開放のために声を上げて闘った先人たちの功績には敬意を示さないといけない。)しかしこんな俺でも、頼りがいのある父、優しく包み込んでくれる母、楽しい兄弟がきちんと揃った昔ながらの「家族」に、どうしても憧れてしまう。それは植え付けられた固定観念なのか?そんな家族は必要ないのか?否、ゲイであっても両親はいる。家庭というものの心地良さ、安らぎは、理屈でなく、知っているのだ。ゲイはただ、自らそれを実現する「能力」がないだけなのだ。だから、俺はあくまでも少数派(とは言ってもひとつの個性!)であるという慎みを持っていたいと思っているし、声高にゲイリブ(ゲイ解放)を叫ぶ気も無い。また、たとえ今以上に自分たちが楽に生きられる世の中になるとしても、その代償としてこの国の文化が根底から覆るような変化を伴なうとしたら、決してそれを望まない。
 教育現場でのおかしな取り組み、そして行き過ぎたジェンダーフリー論に、ちょっと待て、と言いたかったのである。