「砂の女」にみる「生きる意味とは?」

  先日、休日の午後に何もすることがなくて、10年ほど前に録画したモノクロ日本映画のビデオ「砂の女」を久しぶりに観た。
 この作品、原作の読み直しも含めてもう何度も体験しているのだが、そのたびに新しい発見がある。原作は阿部公房。現実には有り得ない不条理な状況を設定した上で、そこでの人間心理を、リアル過ぎるほどリアルに描き出すのが得意な大作家。「砂の女」では、砂丘地帯の人里離れた村落に迷い込んだ男が、実質上囚われの身となり、しだいに村と、そこでの一見奴隷的な生活に同化していく過程が緻密に描かれている。
 男は昆虫採集を趣味にしており、砂漠の珍しい昆虫を追い求めて砂丘に迷い込む。そこで会った村人から「一晩の宿」を提供される。まるで巨大昆虫の巣穴の底に建てられたようなその民家は、まさに二度と抜け出せない蟻地獄だった・・・というメタファー。
 今回、映画を見直して、このブログでも以前書いた「生きる意味」について再び考えさせられた。民家には未亡人が住んでおり、毎日「砂かき」をしながら生きている。「砂かき」は生活の糧であり、同時に猛烈な勢いで浸食を続ける「砂」から、我が家、そして何より村を守るための、大切な作業でもある。そんな村の貴重な労働力として自分が囚われ、幽閉されたことを知った男は、何の疑問も持たずに「砂かき」に勤しむ女に向かって叫ぶ。
「生きるために砂かきをしてるのか、砂かきするために生きてるのかわからないじゃないか!」 
そう、彼じゃなくとも、生きること、その意味を考えはじめると、こうなっちゃうんだ。(「砂かき」を「仕事」とか「家事・子育て」なんて言い換えてみてもいいかもしれない。)
 砂の女はそれに対して「砂は待っちゃあくれませんからねえ」とか「これでも(村には)随分良くしてもらってるんですよ」とか「東京に行ったって、あたしなんか誰も相手にしてくれないじゃないか」「ここには砂がある」などと平然と言ってのけ、来る日も来る日も「砂かき」を続けるのだった。
 そして結局、男は自然の成り行きで女と結ばれ(ここだけは、ゲイは蚊帳のソト)、変わらない毎日の中でささやかな自分だけの希望(あるいは愉しみ)を見出すに至り、とっくに幽閉が解かれていることを知りながらも、最終的には自らそこに留まることを選択していくのだ。
 阿部公房には、人間の関係性の中での自己の定義の曖昧さ(名前とか、顔とか)にこだわった作品が多いけれども、この砂の女でも、主人公の男は最後には失踪宣告され、社会的存在としては曖昧なものになってしまう。しかし彼は確かに生きているわけであり、彼は彼でしかないことを彼が一番良く知っているのだ。つまり「生」の自覚。それは他の誰にも確かめられない、ましてや社会の中で与えられた「役割」を通じて確かめうるものではない。自分自身が確信するしかない。そしてその瞬間、誰でもない自分こそが、自分の生を自分なりに作り上げていける唯一の存在なのだ、ということを、悟るのだ。
 生きるとはつまり、(人はどうあれ、唯一無二の)自分の存在を自覚すること。「砂の女」は、そこに至るまでの男の物語なのかもしれない。そう思った。