おとなのスピッツ旅行 

 最近、俺の中でリバイバルしているのがスピッツ。名作「ロビンソン」に出会い感銘を受けて、デビュー当時の作品にまで遡って聴きまくっていたのはもう10年位前のことだ。しかし近年の作品はどうもピンとこなくなってしまって、最新作『スーベニア』は未聴という状態。
 それが、先週末、あるラジオ局のライブで彼らの生演奏に触れたのがキッカケで久々に自分の中でのスピッツ熱が再燃したのであった。ライブが素晴らしかったこともあって。
スピッツの曲は不思議だ①
 まるで、山の中にあるお花畑のように、まるで、近くの海岸から見える遠くの小島のように、訪れるものを常に変わらぬ姿で迎えてくれる、とてもさりげない、それでいて強い存在感。正直、ずっとそこにいると退屈なんだけど、ときどき思い出しては、ふと立ち寄りたくなるような場所。そんな存在。
 草野マサムネのハスキーで、靄がかかったような浮遊感のあるボーカルを耳にした瞬間、即座にスピッツの世界に包まれてしまう。あー、そうだったよね、これだったよねと妙に納得してしまう、唯一無二といっていい独自の世界。フォロワーは沢山出てきているけれど、やっぱり変わらず常に中央にそびえている山、それがスピッツ
スピッツの曲は不思議だ②
 聴いた瞬間のイマジネーション喚起力、雰囲気の伝播力は抜群なのに、ヘッドフォンを外すとすぐに消えてしまう曲たち。まるで蚊取り線香の煙のように、あとに残らない。あれ?この曲、なんだっけ?聞き直すたび、そんな曲たちと新鮮な再会ができる喜び。
わらべ歌のように、キャッチーでどこまでも素朴なメロディーたちは、この国の空気に溶けてしまうのだ、きっと。
 神様や、蜘蛛や、流れ星や、空や、ガイコツやらと一緒に。
スピッツの曲は不思議だ③
 胸騒がすことばのパッチワーク。歌詞は一見意味不明なのに、メロディー、楽器、声が合わさるとくっきりと情景が浮かぶ。近視眼ではバラバラなものが、一歩退いて見れば、ひとつの作品に織りあがっている見事さ。
 わかりやすいところで、「ロビンソン」の歌詞からそれを見てみる。
 2コーラス目。

片隅に捨てられて 呼吸をやめない猫も
どこか似ている 抱き上げて無理やりに頬寄せるよ
いつもの交差点で見上げた丸い窓は
うす汚れてる ぎりぎりの三日月も僕を見てた
まちぶせた夢のほとり 驚いた君の瞳
そして僕ら今ここで 生まれ変わるよ
誰も触れない 二人だけの国
終わらない歌ばらまいて
大きな力で 空に浮かべたら
ルララ 宇宙の風に乗る

意味不明。ストーリーではなく断片的なことばのイマジネーションの積み重ねである。「猫→丸窓→月→夢」と連想ゲームのようなキーワードのリレーだ。発想の飛躍、ではなく、連想なのだ。自然な思考の流れがキーワードになり、次々とイマジネーションを呼び起こし、そして、結果として(この2コーラス目では、だが)シャガールのような抽象画が頭の中に像を結んでいく。これが草野マサムネマジックなのかもしれない。

最後に、スピッツの曲のなかで好きなフレーズをつなげて、ひとつの詞をつくってみる。ということをしてみた。
 くだらない話で 安らげる僕らは  (「愛のことば」)
 いつも、もらいあくびしたあと 涙目茜空  (「運命の人」)
 さよなら僕の可愛いシロツメクサ  (「冷たい頬」)
 君の笑顔が胸の砂地に沁み込んでいくよ  (「ホタル」)
 いつかまたこの場所で君と巡りあいたい  (「チェリー」)
モザイクで出来上がったモザイク、の完成だ。こうするとわかる。草野マサムネが紡ぎだすことばたちはやっぱり、どれも、ノスタルジックで儚げで、どこか切ない。

さて『スーベニア』、俺もそろそろ買ってみようかな。