カラダ主義

 最近、温泉によく行くのだけれど、誰と行っても結構平気で裸を見せている自分に今更ながら驚く。ほんの5年位前までは、着替えなんかも恥ずかしくて仕方なかったのに。
 あと、ボディタッチも前に比べると随分平気になった。あ、挨拶がわりに肩をたたくとか、そういうことだけど(笑)。
 これって、「人慣れ」したのかな?と思う。つまり白状しちゃうと、俺は20代後半までそういう、互いのテリトリーを侵し合うような密着した人間関係が苦手だったのだ。温泉で裸というのも、いわばプライベートな部分の見せ合いなわけで、過剰な密着度という意味では同じなのだ。
 精神的な意味での人慣れは、就職して仕事しながら自然に出来て来たように思うけれど、肉体的には長いこと他人を受け入れられなかった。握手するのも抵抗あり、みたいなね。それはもしかしたら、自分の身体へのコンプレックスが大きかったからなのかも知れない。このフツーに機能しない身体(だって、女の子を見ても、何も感じないんだから)をどこかで恥じていて、誰にもこの身体の秘密を知って欲しくなくて、それで結局、誰にも近付くことができない、というような・・。
 それが変わったのは、ゲイとして初めて恋人が出来たことがやはり大きかった。つまり、身体も心もありのままで認め合う相手が出来た、ということ。このカラダも含めて、俺は俺なんだ、っていうことが、自分でもやっと受け入れられたということだ。そして、他人と肉体ごとぶつかり合って交流することが、言葉を交わすのと同じくらいに大切なコミュニケーションだということを、時間がかかったけど初めてそのとき、知ったような気がする。
 そうして、精神・肉体両面で人慣れしてくると、人間関係全体に余裕が出て来る。頭だけで一所懸命人間関係を作ってきた頃とは、世界が全く変わってしまう。カラダと心の見事な相乗効果。
 それは文字通り、コトバではない部分で、心情的には多少異質な部分があっても、カラダ的に見れば、人間、大差ない存在だ、ということがわかるのだろうね、きっと。。だから自ずと、他人を受け入れるキャパシティが広がる。
 まあ、そんなわけで、母親の庇護から離れた思春期前期から成長して恋人ができるまで、他人との肉体的接触の機会がめっきり減る孤独な期間が誰にも訪れることを考えると、たとえその青年がゲイであろうとなかろうと、頭でっかちになり過ぎずにもっともっと、まわりの友人・家族達と親密なカラダ主体のコミュニケーションをしてほしいな、なんて勝手に思うのである。今の日本では、もしかして青少年にそんなチャンスさえ減っているのかなあ、と。
 青年よ、大志とともに「近くにいる誰か」を抱け。てか。