大島でこんなことを考えたのだ

 先日、伊豆大島に旅行に行ってきた。竹芝桟橋からジェット船で1時間半ほどで着く。近い!
 広い空と青い海に囲まれた美しい島。大島。
 火山島なので農地は少ないけど、美味い魚には事欠かない。人懐こい人が多くて、人と話すのが楽しい。開放的な家々には鍵もかかっていなかったりする。よそ者の目から見れば、うらやましいくらいの恵まれた環境...。しかし。
 大きな産業もなく、観光業においても立ち遅れたこの島には、驚くほど、活気がなかった。シーズンオフだったこともあるが、それにしても人が少ないこと...。広い舗道は殆ど誰も歩いてないし、開いている店さえも少ない。
 島の人に聞くと、この島は「リゾート開発」に失敗したから、まず若い人が旅行に来ないのだという。人を呼べる豪奢なホテルや、おしゃれな遊びのスポットがないからだそうだ。勤め先が無いから、ほとんどの若者は高校を卒業すると島を出て行ってしまうらしい。島人口も、すでに1万人を割っているという。
 そんな話を聞いていると、青い空と青い海が、なんだかとても息苦しく感じられてきた。島全体が、ため息で覆われているような気がしてきた。

もしも自分が自給自足の生活だけで満足できる人間であれば、大島はとても良い場所に思えただろう。美しく豊かな自然環境と穏やかな人々。喧騒から隔離された静かな環境。そこで自然のものを食べ、のんびりと暮らす。お互いに必要なもの、余ったものを交換しあいながら、共生していく暮らし。
 しかし、もはやこの日本というシステムはそれを許さなくなってしまっている。介護も医療もお金で買うものになりつつある。民営化された郵便局では、採算の合わないサービスはやがて切り捨てられるだろう。そう、島民の夜の楽しみが今やほとんど「テレビ」になってしまっているのと同じように、都会生活のために用意された仕組みが、本来は豊かなこの島を蝕んでいる。この先、島全体で何とか「外貨」を稼ぐ方法を見つけ出していかない限り、生き残ることさえままならず、ジリ貧は免れない。
 こんな平和な島でさえ、人が生きていくための最後の命綱がいつの間にか「人の絆」や「思いやり」から、「お金」に取って変わってしまっているような気がして、寂しかった。(そんな方向性を極端な形で推し進めたのが、コイズミ政権だったように思う。)
 広い空と青い海をのんびり眺めながらそんなことを考えた。