世は歌につれ

 俺の自慢は、ヒット曲を聴いてその曲がヒットした年が大体わかることだ。好きな太田裕美さんや聖子ちゃんのヒット曲はもちろん、90年代のザードやビーズやドリなんかのメガヒットも、●年にヒットしたかをほとんどの場合答えられる自信がある。とてもくっだらないことだけどね(笑)。
 でもそれはつまり、自分が生きてきた人生に常に何らかBGMとなる曲が存在してきたという証しであり、それはとても幸せなことだったと言えるかもしれない。自分の過ごしてきた人生を好きなウタとともに反芻できるのって、とても素敵なことだと思うんだよな。
 ただ俺は昭和と平成のビミョーな移行期に生きてきたのと、前の日記にも書いたとおりの「洋楽耳」のおかげで、ヒットした年は西暦で覚えていることが多い。「昭和」はまだわかりやすかったけど、「平成」になるとどうもダメ。自分が人生のピークを平成で迎えたこともあって、来年が平成19年とか聞いても「え?平成くんもいつの間にか高校卒業なの〜〜〜」みたいな感じ(笑)でホントにあっという間で実感がない。それよりも90年代後半の世紀末カウントダウンのドキドキ感だとか、21世紀突入後のコイズミ政権の長過ぎた5年間のやるせなさも手伝って、自分の中ではいつの間にか「西暦で年を刻むクセ」が身についてしまったみたいだ。
 でも・・・。いざ「ヒット曲」に置き直して見ると、それにしても昨今の曲は時代感が掴みづらくなっている感じがする。たとえばモーニング娘。の「ラブマシーン」なんかはいかにも一昔前のヒットだけど、あれは世紀末のヒット=1999年という答えがすぐ出るのね。だけど、宇多田とかオハマ(あゆみ)の曲になると、もういつヒットしたかなんて全然わかんなくなっちゃう。それは結局、①同じメンバーが同じように売れている時代が長くなりすぎている。②皆が時代とともに共有するような歌が年々少なくなっている。③音楽ダウンロードなどの浸透で「ヒット曲」の定義そのものが曖昧になっている。ことなんかが原因なのかな、と思う。
 あと時代感を掴みにくいヒットのもう一つの典型的な例が、リミ夏川の「涙そうそう」とか。もう、あっという間にスタンダードになりすぎて、あれ?これ売れたのっていつだっけ?みたいな曲も多くなっている気がする。「さくら」とかね。(「誰が歌う「さくら」」?というややっこしさも含めてね。)
 歌は世につれ世は歌につれ。
 そんな言葉も既に死語になって来ているのかな。ちょっと寂しいな。