その日、その時

 立て続けに訃報が届き、いくつかの葬儀に参列してきた。
 50代の従兄弟。働き盛りでの突然死。引きも切らない弔問客はみな一様に驚きの表情。沢山の花に囲まれ、大勢の人に惜しまれながら逝った人。
 80代の義母。数ヶ月の入院後に静かに息を引き取った人。身内とご近所だけの葬儀はひっそりとしていたけれど、家族に囲まれ温かく見送られて逝った人。
 すでに不惑の年に足を踏み入れた俺が、葬儀に参列しながらふと考えるのは、自分の葬儀のことだ。親戚とのつながりも殆どなく、おそらくはひとりでこの世に別れを告げることになるであろう俺。
 その日その時、いったい、どれ位の人々が自分のために集まってくれるのだろうか?なんてことを不覚にも考えてしまうのだ。
 プライベートで交流のある友達は、ほとんどがゲイの人たちだ。だが俺は親戚にゲイの友人を紹介したことは、もちろん、ない。手帳に名前を載せているゲイの友人も、いない。
 つまり、俺が死んで、誰かが葬儀を取り仕切ってくれたとしても、俺がもうこの世にいないことをイチバンに知って欲しい人々がそれを知るのは、ずいぶん時間が経ってからのことになるだろう。
「死んでしまえば、自分は消えてしまうわけだから、おんなじさ。」
 そう自分に言い聞かせている自分がいる。
 でも、一方で、何かを残したい・・・誰かの記憶に、残りたい・・・と叫ぶ自分がいる。
 そのくせ、誰かの記憶に残ることばかり考えながら生きることにも、どこか抵抗があって。
 いっそのこと、昔のスパイ映画の指令テープのように、死んだら、この肉体ごと消えてしまえばいいのだが。すべての人の記憶からも消えてしまえればどれだけ楽だろうか。
 〜〜結局はそんな葛藤を抱えながら、俺はこれからも生きていくのだろうと思う。
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 そんなことをウダウダ考えていたら、大好きなみゆきさんの曲のフレーズが思わず浮かんできて、はたと膝を打つ!
 

 すがりたい誰かを失うたびに 
 誰かを守りたい 私になるの   中島みゆき「誕生」  

 小さいけれど、小さいなりに今もこの世で役割を与えられているらしいことに、もっと感謝しないとね。
 与えられた小さな役割さえ満足に果たさずに、死ねるか、みたいな感じ。
 そう、この感謝の気持ちを周囲の人にお返しするだけの人生でも、いいじゃないか!ってね。
 「死」というものに直面することで、改めて自分の「生」を考える。そしてその過程で、ふと利己的な愛情から与える愛情へと気持ちが向かっていることに気づく。
 逝った人々からそんなインスピレーションをもらった、俺の8月。
※ところで、キレイにお別れするために、まずは「遺言書」を書いとかなくちゃね。それが、いつか一人で死んでいく俺の責任でしょう。それは、わかってる。