セイコ・ソングス10〜「How Can I Fall?」

Eternal
 セイコ・ソングス一区切りの10回目は、1991年の洋楽カバー・アルバム『Eternal』からの1曲。原曲はイギリスのバンド“Breathe”による1988年のヒット曲。
 聖子さんの場合、当たり前過ぎるのか、その歌の巧さは改めてあまり言及されないような気がするのだけれど、彼女が自作曲やオリジナル曲へのこだわりを捨てて、このアルバムのようにもっと軽いスタンスでカバー曲をたくさん取り上げてくれていたなら、ヴォーカリスト松田聖子の評価も、もっと違ったものになっていたかもしれないな、なんてことを思う。スーパースターとか、スーパーアイドルという評価だけではない、「大歌手」としての評価、ね。これはモモエさんにも当てはまる話なのだけれど。
 たとえばひばりさんはいわずと知れた昭和の大スターであり、かつ天才歌手でもあるけれど、その「天才歌手」という評価のウラには、本人による、その才能の最大限のアピールがあったように思うのね。あるときはジャズのスタンダードに挑戦したり、民謡で軽く声を転がしたと思えば、浪曲を唸ってみたり。そのどれもが一流に値する成果を見せていたから、その天才ぶりが衆目の一致を見たのだと、そう思う。
 その点、ひばりさんと比較しちゃうと聖子さんにはちょっと分が悪いのだけど、聖子さんも本来は歌い手としてとても器用な人なのは確か。かつてNHKの特別番組で披露した「アカシアの雨がやむとき」や「津軽海峡冬景色」で垣間見せた、歌謡曲歌手としての優れた資質。クリスマスアルバムに収められた「クリスマス・メドレー」での唱歌歌手としてのセンス。でもやっぱり70年代以降の「アイドル・システム」の中では、アイドルスターとしての存在はどうしてもコマーシャリズムに飲み込まれてしまっていて、その商品価値のみが先行してしまうから、聖子さんであれモモエさんであれ、たとえ才能ある「歌い手」であっても、それは売れる商品である彼女たちの一側面としてしか扱われていないように思うのね。だから、彼女らには本来の歌の巧さで勝負するような作品はなかなか作られなくて、そのキャラクターを最大限に生かすためのオリジナル作品で固められてしまう。つまり、本人が本当に勝負したい種類の歌を果たして全盛期の彼女たちは歌えていたのか?というと必ずしもそうではなかったのかもしれない。そんな気がする。
 さて、本題に戻ります。この『Eternal』での聖子さんのボーカル、俺は個人的に大好きで、彼女の全キャリアの中でも最高レベルではないかと思っている。結婚休養以降、断然に透明感を増した声に加え、90年前後のアメリカでのボイス・トレーニングの成果(?)もあってか、ささやくような低音から艶やかな高音まで声が良く伸び十分な質感がある。このアルバム、たとえばオープニングの「Hold On」のキラキラした清涼感とか、「All This Time」では聖子さんの伸ばした声がギターと重なり合うゾクゾク感とか、ボーカルアルバムとして聴き所が満載なのだけど、何がイイって、やっぱり聖子さんがアメリカでの生活で耳にして好きになった歌を、自分で日本語詞をつけて、とても大事に歌っている感じが伝わってくるのだ。自分の才能に無理な負荷をかけない範囲内で、聖子さんが本当にやりたいことを楽しんでやっている、それが伝わってくる作品(数少ない作品のひとつ)のように思える。
 「How Can I Fall?」。控えめなバッキング、ほとんどアカペラで始まる歌い出しの集中力が素晴らしい1曲。とにかく、ことばに力がある。

時だけが 悲しく流れる
肩を寄せあっても
心だけ 遠いの 
      (「How Can I Fall?」 訳詞:SEIKO)

 これは、聖子さん自らが紡いだ言葉である。シンプルな詞でありながら、言葉がボーカルに乗ると、始まりの「ト」の音、「かな〜しく(ながれる)」の「ナ」の音、それら音の一つ一つに思いが宿る感じがある。言霊が宿る。そんな大袈裟な表現さえしたくなる。何度でも味わいたい魅力があるボーカルだ。
 さてこの『Eternal』以後の作品では、聖子さんの音楽は洋楽の焼き直しばかりが目に付くことになる。恐らくは聖子さんのセルフプロデュースというのは、この洋楽カバー・アルバム『Eternal』での制作過程で体験した「至福」を再現したかっただけなのかもしれない。。。そんな勘繰りさえしたくなるほど、喜びに満ちた聖子さんに出会える幸せなアルバムがこの『Eternal』なのだ。