認めざるを得ない、福田の柔軟性

 福田首相が国会答弁で、天下の悪法「障害者自立支援法」を見直す向きがあることを初めて言及した。何せ、この法律ときたら「自立の第一歩はカネを払うことだ!」と言わんばかりで、障害者がわずかな工賃を稼ぐために施設に通うにも利用料を取られたり、食費の減免を受ければ減免額はサービスを受けたものとみなされてその1割を負担させられたり、と、「障害者の自立」というキレイ事とは名ばかりの、とにかくカネ、カネ、カネで成り立つ“ゲスな”法律なのだ。厚生労働省よりも財務省主導で立案されたというのが通説の、当事者のことなど何も配慮していない、ただ財政再建だけを目的に作られた法律、そう言い放っても何ら問題はない。
 当初はノホホ〜ンと音楽ネタを書き連ねていただけのこのブログで、俺が政治の不満を書き始めたきっかけは、かのインチキ郵政解散選挙のウラで、当初から問題視されていたこの「障害者自立支援法」がいったん廃案になったにも関わらず、自民の圧勝という信じられない結果を受けて、何らマトモな審議も経ぬままに、スルッと成立してしまった、そのやりきれなさと憤りがあったからだ。当時、障害者の子を持つ知り合いのお母さんが「血も涙もない竹中の家の門前に、生きるのもタイヘンなうちの子を置いてきてやるわ!あんたに育てられるんなら育ててみろ、って言ってやりたい!」と悔しそうに言っていたことと思い出す。
 しかし、圧勝したコイズミ自民は、これを皮切りに弱者切捨ての政策をその後もどんどん推し進め、障害者のみならず、高齢者、母子家庭、地方在住者、非正規雇用労働者など、切捨てのターゲットは拡大を続けたわけだ。
 福田首相の見せる「柔軟な姿勢」「対話姿勢」は、正直言って、胡散臭い。来る衆院選を前に国民に媚を売っているに過ぎないのかもしれない。たしかに、そうだ。
 しかし俺は、コイズミ・アベ路線において頑なに貫かれた「ブレないことが美しい」という姿勢、そこから福田首相が路線を変更したことは素直に認めたい、そう思うのだ。
 ここ数年、単に意地っ張りで鈍感に過ぎなかったはずのコイズミに対して、マスコミはおろか国民の多くがその「ブレない姿勢=虚勢を張ったカリスマ性」をカッコイイものとして支持してきたこと(信じられないことに今だに支持者は多いけど)に俺は“何ともいえない気持ち悪さ”を感じてきた。しかしコイズミ継承者のアベが「KY」という流行語(?)を産むほどに鈍感だったことを愚かにも露呈してしまったおかげで、少しずつではあるが「他者の意見に聞く耳をもたないことは幼稚性の表れである」という認識が、鈍感な国民の間にも広がりつつある気がするのは歓迎すべきかもしれない。(それでも根強くコイズミを支持する人々が存在し続けることは、全く理解できないのだけど!)
 自分の人生なら、人にとやかく言われようとも、自分の好きなように設計していけばいいと思う。「自分を貫くことの美しさ」が生きるのはそういった場面だ。しかし、たとえば人生設計がうまく運んで自分が社長になったとき、それが通用するか、というと、そうはいかない。「他者への責任」があるからだ。そうなって初めて、人は慎重になり、自分を貫くことと他者の意見を貴重なアドバイスとして取り入れる柔軟性のバランスが大切であることを、本来は学んでいくはずなのだ。政治はその最たるもの。国民の多く、ではなく、マイノリティの人々の声さえも掬い上げて、少しでも多くの人が平和に暮らせるように将来を設計していく責任がある。
 しかし、ひとつを貫くこと(その行為)のみにこだわったコイズミ・アベ路線には、「責任」という言葉が絶望的なまでに欠落していて、すべて「自己責任」という都合の良い言葉に置き換えられた。これは言い換えれば「他人任せ」の責任転嫁に過ぎないのに、国民は皆それに騙されたのだ。
 いま福田首相が見せる柔軟姿勢、その中に匂わせるコイズミ・アベ路線の修正姿勢。半ば騙されていることを意識しながらも、俺はそこに「悪政の責任を取り、まずいところは修正する」という姿が少なからず見られること、「無責任」「対決=意地の張り合い」ばかりが目に付く昨今の政治の場面でそのような反省の動きが久しぶりに見られたことを、素直に評価したい、そう思ってしまうのだ。
(ただし、俺の反自民の姿勢が変わるわけではない。今後、本当に自民党を認めることがあるとすれば「郵政民営化法案」の大幅な見直しが与党主導で行われた、その時だと思う。<追記>)