「国民の生活のために」ならない政治

 9月14日、日曜午前のテレビは案の定、自民党総裁選デキレース・イベント花盛りで、各テレビ局のお祭り騒ぎ具合は見苦しいほどでした。自民党の支持率はこの1週間で上がっているそうですから、確かにイベントによるPR効果はあったようです。「やれやれ」です。私としては、5人がテレビに出て喧々諤々と話をするほどに、その政策の違いがわからなくなってきて「誰でもいいじゃん」という気持ちが強くなってしまっているのですが、最初からほとんど麻生タローが総裁になることが決まっているわけですから、自民党としてはとにかく大勢の候補者が出てタローのテレビ出演を盛り上げられれば万々歳なわけで、よくよく考えればそんな番組を見ている時間は「無駄」でしかないのですよね。一生懸命見ている私もバカですよね。(ときどき死んだ魚の目をした元防衛大臣イシバ(泡沫候補)が「あんた自民党なのにそんなこと言っちゃっていいの?」というほどの「マットーな」ご意見をたれてくれるのは面白かったですが。)
 さて、今回の総裁選でもそうですが、自民党民主党もよく「国民の生活のために」とかいう言葉を使います。この言葉には気をつけなくてはいけないな、と私は思うのです。
 これは今も忘れられないのですが、自民党高市早苗(最近めっきり目にしなくなりましたね)が以前「TVタックル」で税制論議になったとき「国民に給料を払っているのは企業なんだから、法人税の減税こそ優先するのがあたりまえで、国民に対する(定率)減税なんて後回しでいい」的な発言をしました。彼女(高市)はもともと保守的な考えの持ち主で、それが縁でアベお坊ちゃんに重用されたわけですけど、これが政治家や官僚の考え方の典型なのかもな、とそのとき私は思ったのです。いわば「富国強兵」を引きずった考え方。「殖産興業」とも言いますね。
 彼らも勿論「国民の生活」を考えなくはないのでしょうが、その為にまずは国の富力(今でいうGDPですね)を高めることが最優先であり、それを実現するためにあれこれ「システムづくり」をするわけです。しかしいつの間にか、目的であったはずの「国民生活」がどこかに消えてしまって「システムづくり」のみが一人歩きしてしまうのです。結局最後に残るのは「システム維持装置」ばかりであって、それは何かというと、グローバル社会の中で競争に勝ち残り、GDPを伸ばすための「法人税減税」だったり「派遣法改正」だったり「消費税率見直し論議」であったりするわけです。それは結局はシステム中枢部に力を集中させる効果を発揮するばかりで、国民には苦しみを与える結果にしかならないのです。
 このタイミングで、米大手証券会社のリーマン・ブラザーズ破綻のニュースが飛び込んできました。米高官が記者会見で「大事なのは金融システムの維持だ」と話しています。奇しくも同じことを言っていますね。つまり、国家にしろ金融業界にしろ、政府高官や権力者たちがまず重視するのは我々ひとりひとりの生活ではなく「システム維持」なのではないでしょうか。勿論それを守ることは彼らの重大な責務であり、そのことを責めても仕方ないことだと思います。ただその優先事項の前には、例えば路頭に迷うかもしれないリーマン・ブラザーズ社員の身の上だとか、行き場を失った投資資金が流れてまたもや石油価格高で一般市民の生活を苦しめる可能性があることなどは、取るに足らないものになってしまうのです。いわば、命の通ったひとりひとりの生活よりも「システム」という虚像のほうが大切にされてしまう世界、それが高度にシステム化された現代社会なのだと思います。
 「国民の生活のための政治」を政治家に実行してもらうためには、省庁など官僚組織や財界そして政党、こういった「システムの中枢」からなるべく自由な立場の人物に委ねない限りは難しいように思います。
 日本人は本来、思いやりや共生、そして身の程に合った慎ましさのなかで幸せに暮らすことが得意な民族のはずなのです。確かにその中には独特の曖昧さ、甘さのようなものがあって、厳格なルールが求められる欧米型の国際社会の中では異端かもしれません。しかしいま、厳格なルールで得意げに突き進んできた典型のアメリカが、大きく揺らいでいるのです。日本人による日本人のための政治、血の通った人間味のある政治、それを模索し始めても良い時期なのではないか、と私は思います。
 それにはまず自公政治を終わらせて、次を模索してみる、それしかないのではないのでしょうか。