逝きし世の面影

 以前紹介したことのある名著「逝きし世の面影」を読み直しています。かつての日本は、江戸末期から明治初期にかけて日本を訪れた外国人からすれば「妖精たちの国」のように見えたといいます。小さな醜い(!)人々が、貧しい中にも清潔な環境と恵まれた自然に囲まれて幸せそうに暮らしている国。当時、日本を訪れた外国人たちの多くが、かつての日本をそのように表現し、文書に残しているのです。海外からの異形の訪問者に対し、人々は誰もが笑顔で家に招き入れ、お茶を出し、少女たちは摘んだばかりの花束を次々に渡してきたといいます。とにかく、どんな貧村であっても人々の顔には満足気な笑顔があり、田畑は手入れが行き届いてどこも美しく「イギリスの庭園」のようであり、町には意趣に富んだ芸術的な工芸品が並んでいて「まとめて買い占めたくなる」、かつての日本はそんな国だったようです。
 もっとも、著者は、そこには旅行者ならではの過大な思い入れや美化が含まれている可能性があると、再三、読者に注意するよう促します。(彼ら訪問者の多くが、当時混乱期にあった中国の殺伐とした風景や人心の荒廃を体験しており、それも日本に好印象を与えた一因と考えられるようです。)
それでも私には、かつて日本はそんな幸せな国であったに違いない、という根拠の無い確信があるのです。それは自分の血のなかに、遠い昔の記憶が溶けて流れているから、かもしれません。
 私は福祉系の職場で働いているんですが、職場仲間の大部分は若い人たちです。普段の彼らの働きぶりをみていて感ずるのは、巷で言われているような若者像、つまり「コミュニケーション下手」「根気が無い」「指示待ち」などといったレッテルとは程遠い人たち、つまり「チームワークを重視し」「根気強く」「意欲を持って仕事に取り組む」若者が非常に多い、ということです。もちろん年長者から見れば、礼儀作法が不十分であったり、気が利かなかったり、服装がだらしなかったりといった欠点は数多く見受けられるでしょうし、そもそも先に挙げたレッテルそのもののような若者も確かに存在します。しかし、私が身近にいる若者たちを見る限り、本来の日本人の良い部分である「優しさ・思いやり」「協調性」「平和志向」「楽観性(良い意味での呑気さ)」「慎ましさ」等等は、まだ決して失われていないように思うのです。
 確かに、テレビを見ていると「おバカ」な若者たちを売り物にした低俗な番組が氾濫していますし、一方で時の権力者たちは責任ある地位を平気で放りだしたり口をひん曲げて失言を繰り返したりしていて、「本当に日本は大丈夫なのだろうか」と思わせられることも多いのですが、我々庶民は、マスコミが垂れ流す風潮に惑わされることなく、庶民ならではの「日本人としての自意識」をもっと高めて、それこそ「慎ましやかな日本人としての誇り」を決して失ってはいけないと思います。
 たとえば、ちょっとした知り合いのご家庭に訪問したとき、さっとお茶とおしぼりが出てきたり、平凡なおばちゃんの家の玄関先にさりげなく一輪挿しの綺麗な花が飾ってあったり、出先で不意に雨が降ってきたとき、家の干しっぱなしの洗濯物を近所の人がいつの間に取り込んでくれていたり・・・。おそらく「逝きし世の面影」に書かれているような日本人の善き気質・習慣・伝統のようなものは、少し見回せば今もあらゆる場所に生きています。そういった「日本人の持つ善きもの」を私たちは改めて積極的に評価すべきだと思いますし、私自身、自分の中にそういった部分を積極的に見つけて、大切にしていきたいと思うのです。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)