「イントゥ・ザ・ワイルド」

hiroc-fontana2008-10-22

あらすじ: 大学を優秀な成績で卒業したクリス(エミール・ハーシュ)は車や財布を捨て、自由を手に入れるための放浪の旅に出る。労働とヒッチハイクを繰り返し、アメリカからアラスカへと北上。アラスカ山脈の人気のない荒野へと分け入り、捨てられたバスの車体を拠点にそこでの生活をはじめる。(シネマトゥデイ

 なんだか「口惜しい」。
 いいえ、映画の出来は良かったのです。アメリカ大陸の大自然の厳しくもシンプルな美しさ。抜群の舞台装置をバックに、純粋な魂の行きつく先を求めて彷徨う主人公の青年。その美しく澄んだ瞳。俯瞰とクローズアップを巧みに組み合わせた美しいシーンの数々は、今も目に焼きついて離れない。
 しかし、何故「口惜しい」のか。
 それは若さゆえに哀しい結末を迎えなければならない、その青年の未熟さが、観ていて「口惜しい」のだ。それほどまでに、主人公の心情に入り込んでしまった俺なのである。
 たとえば、身近な人間(オトナ達)の虚飾に満ちた生き方に嫌気がさして人間嫌いになったり。
 たとえば、本の虫になって、自分だけが真理を掴んだような気になって回りの人間を軽蔑したり。
 たとえば、若さゆえの溢れるエネルギーを過信して「自分は一人で何でも出来る」と思い込んだり。
 主人公の青年ほどではないにしろ、そんな青春時代を経験した俺だから、この映画で青年が出会うフツーの人々の、本当の家族のようなごく自然な思いやりや、さりげない愛情を見たとき、結果としてそれらをすべて振り切ってまで荒野に向かってしまう若者の頑なさ、思い込みの強さが、口惜しくて堪らなかったのだ。(実話が原作だから仕方ないのだけどね。)
 「純粋に、ただ生きること」。それは究極の自由、究極の幸せ、かもしれない。主人公の若者は、行き着いたアラスカの地で、そのとば口に立ったのだ。しかし彼は、それを得るために自らを引き返せないほどの極端な孤独に追いやってしまっていたのだ。はたしてその必要はあったのか。何故、彼は孤独を選んでしまったのか。
 彼は最後に気付くのです。「幸せは誰かとシェアした時に本当のものになる。」でもこれは余りにも当り前すぎるし、遅きに失した「悟り」であって、俺は共感できない。口惜しいばかり。バカだなあ!て。
 それよりも。
 果たして、自由とは?幸せとは?
 それは人間社会が作り出した相対的な観念に過ぎないのか?それとも孤独であっても、自らが主体的に感じ取ることが出来る普遍的観念なのか?
 そんな宗教的な疑問を投げかけられたような気もしたのね。ちょっと深読みしすぎかもしれないけど、その方が何となく観終わったあとの「しっくり感」があるので、俺はこちらを採用したいと思う。