44歳のテーマ

 44歳の中年ゲイ、こんな俺でもこのごろは歳相応には分別が出来てきてね。いまはブログでもエラソーに尤もらしいことを書いたりもしているわけだけど、やっぱりここに至るまでは人並みに苦しいことも多くて、正直、自己否定と周囲への八つ当たり、そして自己嫌悪の繰り返しみたいな感じだった。
 物心ついてゲイを自覚してから、あるがままに(自然に)生きることの難しさに直面して、人前ではいつも仮面を被って、少し引いた場所から楽しそうにしている周囲の人々を眺めている(嫉妬している)、そんな自分が嫌いで。生きている価値がないように感じてね。
 でもそんなだったからこそ、いつの頃からか、「ちゃんとしなくちゃ!」と強迫観念的に思うようになってきて。つまり、自分は生きていてもいいんだという、その命の価値を回りの人に認めてもらえるようにならなくちゃ、という考えに切り替わったの。我ながらなんというポジティブ・シンキング
 そして俺は今こんな風に思っているのだ。この世で出会う出来事っていうのは偶然なんて一つもなくて、ぜんぶ自分で選んでるんじゃないかなって。そして選び取った経験を重ねて魂を成長させていくことが、人生の意味なんじゃないかな〜と。なんとなく。ヒンドゥー教や仏教でいうところの「輪廻転生」とか「カルマ(業)」の考え方、それに近いというか、そのものかもしれないけど。そんなわけで、今まで経験してきた苦しみとか、これから出会うかもしれない一見不幸な出来事も、全部自分にとっては必要な経験なのだろうなあ、なんて思えるのね、今は。
 40代半ばくらいになると、フツーの男ならそれなりに責任を負わざるを得なくなってくる。望む望まないとに関わらずにね。こんな俺でも最近は本当にそうで、なんやらかんやらを任されて場違いな場所に借り出されることが多くて困っているのだ。これも、自分に価値を見出せないことを誤魔化すために、せめて見かけだけでも分別ある男になって認められようとしてきた結果だから、これはこれで仕方のないことだと思えるのだけど、やっぱりそういう場に出ると、独身で(ゲイだし)、怠け者で、実はアイドルが大好きで、ホントはおじさんに甘えるのが好きで・・・みたいなそんな「自分の本質と対外的立場のギャップ」が逆にリアルに浮かび上がってくる感じがしてしまうのだ。そして思わず、その場から逃げ出したくなる。
 回りの人はそんなことはお構いなしに、ワイフの話とかコドモの自慢話に花が咲き始めて、あなたはどうですか?なんて聞かれて「私は(まだ)ひとりです。」と言うと、「あ、そうですか・・・」と言ったきり気まずい沈黙が走ったりしてね。
 そう、どんなに強がってもそこにはやっぱりどこか「引け目」を感じている俺がいるのだ。
 でも、逃げてばかりはいられないの。これこそが俺が自ら選び取っている現実で、自分が必要としている経験に違いないから。そこで俺は、苦しいけど、最近はこの状況をこんなふうに捉えるようにしているのだ。
 自分の内面の弱い部分、引け目を感じる部分は誰にだってあるはずだ。一方で44歳の俺というこの存在が果たすべき責任は、俺がどうあろうと避けがたく「そこにある」わけで。そうである限り、ゲイだろうがなんだろうが、この有りのままの俺が俺なりに、その目の前にある果たすべき責任をしっかりと果たしていかなければならないのだとね。つまりは、いつまでも自分を卑下していては何も始まらないということ。
 ちょっと青臭いけど、これこそ俺の、44歳のテーマなんだ、とね。