ひとりの幸せ

 あなたは今、幸せですか?
 もしそう訊かれたら、俺はたぶん「はい」と答えるだろう。でも、10年前にその質問をされていたら「幸せ?とんでもない」と答えていたかもしれない。
 今年の年末も、毎日のように気の置けない友人達と一緒に過ごし、何となくじんわりと温かい時間を共有しながら、1年を締めくくることができる。そして、大晦日にはひとり、1年をゆっくりと振り返る時間さえ持てること。こんな贅沢を「幸せじゃない」なんて誰が言えようか。
 俺が30代後半に差し掛かったころ、相次いで両親が亡くなった。その時回りの人たちから「寂しいでしょう?」「お辛いでしょう?」とたくさんの慰めの言葉をかけられた。たしかに両親が相次いで亡くなったショックは大きかったのだけど、その時の正直な気持ちを白状すると、俺はぽっかりと開いた心の真ん中に、何だかスーっと気持ちよい風が吹き抜けるのを感じていたのだ。「これでやっと、すっきり一人になれるんだ。」と。実は、両親と永遠のお別れをしながらも、人から慰めの言葉を掛けられるのが辛くなるほどに、俺の心は軽やかだったのだ。
 ゲイとして生まれると、家族、とくに両親との間で必ず大きな葛藤が生じる。いつまでも結婚しようとしない息子に親は焦り疑心暗鬼になり混乱する。子は子で、結婚できない申し訳なさと、このように生まれたことへの少しの怨みと、最後は甘えたい気持ちとが混ざり合った複雑な感情を抱いて毎日を過ごすことになる。
 俺は両親が健在だったとき「良い息子」になろうとムリをしていたのだ。自分はいつか「マトモに」結婚しなくてはいけない、という脅迫観念で「俺はゲイなんかじゃない」と常に自分に言い聞かせ、30歳前後には気の進まないお見合いまで何度か経験した。しかしそんなハナシはうまくいくわけもなく、すべて流れ、晩年の母は顔を合わせればいつも小言ばかり言うようになり、俺は次第に家に帰るのさえ苦痛に感じるようになった。そしてそんな辛い毎日のさなか、マトモに話し合うこともできないまま、俺がゲイであることも知らずに両親はあっという間に逝った。
 そして俺はひとりになった。当初はマトモな親孝行ができなかった自分を責めたりもした。しかし、その反面、いよいよフリーハンドで自分の人生を描いて行けることへの浮き立つ気持ちも抑え切れなかったのだ。
 37歳のとき、給料のためだけに無理して勤めてきた一部上場企業を辞めた。40歳の節年が見えてきたとき、ゲイとしての自分に向き合った。ゲイ・コミュニティに初めて自分から出て行くことにしたのだ。はじめは不器用だったけど、初めて他人をありのままに受け入れ、また自分のことをありのままに受け入れてもらえる関係を経験して、ひとりであるからこそ感じられる「人のぬくもりの大切さ」をそこで初めて知ったような気がする。そして、いささか遅咲きの恋愛経験の中で、自分の新たな面に気付き、自分に足りない部分にも気付き、かつてないほどに人間的に成長していくのをありありと感じた。
 そして今、俺は言いたいのだ。すべてを綺麗事として片付けるつもりはないけれど、俺をこんなに早い時期から独り立ちさせてくれた両親に「ありがとう」とね。介護の必要も無く、あっさりと逝ってしまった両親に「ありがとう」とね。お互いのフクザツな気持ちは決して解決しないのだけど、「とにかく俺はいま、幸せです。俺を生んでくれたあなたがたに、感謝します。」とね。