孤独

 週末に、老若男女(つまりノンケ)の飲み会に参加したのね。誰彼かまわず絡んでくだらないジョークを連発するオヤジたちや、天然ボケのふりをして常に話題の中心にいることに命をかけてる計算高い女のコやらに紛れて、俺、テキトーに合わせてそれなりに楽しく飲んでいたのだ。
 飲んで酔ったフリをしながら頭の隅っこでは「俺、この場に溶け込んでるかな・・・」なんて、クローゼットゲイ特有の状況把握などしっかりとカマシながら。。。ホント、悪い癖よね。
 オヤジ達は、目の前でゲイの俺が見てて恥ずかしくなるくらいベタベタといちゃつきながら、ホントに楽しそうにしている。聞くともなしに彼らの会話を聞いていた俺。
 オヤジA「自分がせっせと稼いだカネを全部カアちゃんに握られちゃって、恐る恐る小遣いをせびるなんて、情けねえよな。」
 オヤジB「男と女はなあ、使うコトバが違うんだ。別の生き物だよ。」
なんてね。愚痴を言いながらも、大概は不幸自慢=悪妻自慢なのだ。俺からすると、じつに不思議な不思議なフーフというオトコとオンナの関係。
 それでね、ふと思ったの。なんでみんな、実情はそんななのに、次から次へと勇んでケッコンするのかなって。ケッコンなんて、意味ないんじゃないの?って(・・・コドモを作る以外はね。笑)。
 そんなオヤジたちもかつてはやっぱり、奥さんに出会った頃はギラギラ欲望が煮えたぎって、その快楽の魔力でお互いがガッシ!と結ばれていたのよね。たぶん。(ふと目の前のオヤジ達のあられもない姿が脳裏によぎってしまい、すぐにワイパー作動させたわ。) その後は「家族の一員」になって、長く一緒に住むうちにだんだん「愛情」が「愛着」に変わっていったのよね。たぶん。(可愛いコドモも出来て。)
 でも。仮にコドモが出来なかったり、コドモが独立して二人に戻ったとき、セックスも会話も無くなった夫婦の関係って、どこまで機能するのかしら、て。それが疑問なのよね。俺はケッコンしたことはもちろんないけれど、想像するに、それはもしかしたらゲイ・カップルと同じか、もしかするとそれ以上に、続けていくことが困難な関係なのかも、なんて思ったのよね。何せ「オトコとオンナ=別の生き物」説が飛び出しちゃうくらいだもの。
 俺の目の前で、この時ぞとばかりに実に楽しそうにイチャイチャしているオヤジたち。そう、後も先もない、このひと時が楽しくて仕方がない、という感じの彼ら。。。それでね、彼らを見ていて俺、なんだか急に虚しくなったの。
 だって、こんなに楽しそうに乳繰り合っているオヤジ達だって、終電近くなればやっぱり奥さんの居る家に帰るわけよね。そして、月曜からはまた仕事してカネを稼いで、奥さんやコドモを毎日食わせていく。そんな毎日を繰り返して、やがて死んでく。
 その「死んでいくとき」のこと。夫婦ならもしかすると、「自分が死ぬとき、相手が看取ってくれるかもしれない」そう思えるのだろうけど、よくよく考えると、その確証は何も無いんだよね。相手を看取ることは出来ても、もしかすると自分が死ぬころにはコドモも誰も居なくて、せっかくケッコンしたのに結局は自分ひとりで死んでいくかもしれない。
 たとえそうだとしても、晩年までは傍に伴侶がいてくれるだろうから、一人でいるよりは寂しくはないかもしれない、そうも思えるけど、それさえもやはり確証は無いのよね。それまで何とか夫婦関係が続いて、かつ長生きできれば、のハナシであって。
 でもそれでもケッコンというのは素晴らしい経験だよ、と言われればもちろん俺はそれを否定するつもりは無いのだけど。じゃあ、ゲイ・パートナーの関係とはどう違うのかしら、なんてことを考え始めたら、どんどん深みにはまっていってしまって。
 夫婦って? 友達って? 恋人って? 家族って? 結婚って?
 人間同士の関係って何の意味があるの?
 そんなことを考えるうちに何だか、ぜんぶ面倒臭くなってしまったのね。夜更けの居酒屋でオヤジ達の嬌態を前に、最後に俺はこんな結論を出したのだ。
 「孤独だ!」
 そう、人は結局、孤独なのよ。だから、伴侶や友人を求めつつ自分の居場所を探し続けるのが、人生というものなのかもしれないな、なんて。そして、最終的に行き着く場所がもし「孤独」であるなら、正面からそれに向かっていく生き方というのも、あり、なのかな?なんてね。

 ・・・いやいや、これじゃあちょっと救いがないわね。俺の理想はあくまでもこれ↓なのよ。岩崎宏美『Dear Friends IV』より、お口直しに。

 並んで座って沈む夕陽を 一緒に眺めてくれる
 友がいれば 他に何も望むものはない
 
              「人生の贈り物〜他に望むのもはない〜」
               作詞:楊姫銀(訳詞:さだまさし

 今回はいつも以上にまとまりのない内容で、ごめんなさい。