“悼まれたい”

 前回の日記で、オヤジたちとの「ウダウダ飲み会」に“人間の孤独”を感じてしまった、ということを書いたのだけど、少しばかり論理の飛躍があったかもな?と、書いたあとで後悔したのね。そこで今回はしつこくも続編を。
 そのとき俺は、いざ飲み始めるとやたらとベタベタと人懐っこくなって帰りたがらないオヤジたちを見ているうちに、「あ、この人たち、もしかすると“愛”がほしいのかも?」と何となく思ったのね。まあ“愛”というのはオーバーだとしても、生きている証のような何かを確かめたくて、こうして誰かと共有する時間に異常な執着を示しているのかな?なんて思ったの。
 俺、そこでね、あッ、と思い出したのだ。それは1ヶ月前くらいに読んだ本、『悼む人』(天童荒太)のこと。悼む人実は俺、かつて「永遠の仔」に圧倒されて以来、天童さんが大好き(注:「よしみ」じゃないよ)なのだけれど、正直『悼む人』はあまりピンと来なくて、読んだことさえも忘れかけていたのね。でも、前回の日記を読み返してみたら、自分の意識していないところで「あ、『悼む人』に影響されてるんだ!」とわかったの。
 オヤジたちが、ケッコンしていながらももしかすると奥さんや子供からも看取ってもらえない可能性があることをわざわざ書いたり。「ウダウダ飲み会」に命をかける行為を「孤独のなせる業だ」と決めつけたり。
 おそらく『悼む人』の主人公の青年が行う行為、「その人が生きていたということをいつまでも忘れない」ということの、その反対側にある「生きていたことを誰かに覚えていてほしい」という(自分の中の)無意識の欲求が、あんな日記を書かせたのかしら、なんて思ったのだ。
 そしてね、つい一昨日、ゲイのトモダチと色々なハナシをしていたら、ちょっとそれに近い話題が出て、そのときトモダチがこんなことを言ったのね。
 「何でもいいから、責任を持ちたい。」って。
 社会のために役立つ物凄いことを成し遂げるとか、そんな大それたことではなく。生まれたからには人並みに責任をもって、何かをやり遂げたいと。せめてコドモでもいれば「命をつないだ」という、それだけで責任を果たせるような気がするんだけどそれがゲイである自分にはできないから、ってね。
 うん。そうなのよね。ゲイってのは、上手くすれば毎日を面白おかしく過ごしていけるのかもしれないけれど、それでは自己完結だけの人生で終わってしまう。死んだ後は何も残らない。責任を果たしたいというのはつまり、自分がこの世に生きた証を残したいということなのだと思う。
 俺が先週末、オヤジ達の中に見ていたのは、ゲイである自分の心の叫びのようなものなのかも。それはたとえば
 お互いの存在を存分に認め合っているこの時間が、できるだけ長くあって欲しい。。。そして、自分がこの世に確かに生きている(いた)ということを、目の前のあなたに覚えていてもらいたい。。。という、そんな思い、叫び。
 つまりいざというその時、しっかりと “悼まれたい” ・・・みたいなね。
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 でもね、俺は、こうも考えるのです。
 それは今まで経験してきた恋愛のことです。決して数は多くないし、すべてがハッピーエンドではなかったけれど、どの恋愛でも自分はそのとき相手のことを心から大好きだったし、覚えているのは良い思い出ばかりで、自分としては素晴らしい時間を共有できたと思っているのね。今、別れてしまった相手が俺のことをどう思っているのか、それは知りようもないのだけど、二人の間で素晴らしい時間を共有したというその事実は、しっかり時の記憶に刻まれている、そんな気がするのね(このブログにも過去ログ、残っているしね 汗)。だからそれだけでも俺は十分だし、少なくとも、自分は相手のことをずっと忘れないでいよう、なんてことも思うのだ。ちょっと、カッコつけすぎかもしれないけどね。