いのちの価値

私は日常、仕事で知的障害者の方々と触れ合う機会が数多くあります。
知的障害者の人たち」というと、残念ながら多くのイッパンの人々は彼らのことをこう思うでしょう。
「何をしでかすかわからない人たち」、ひとことで言えば「アブナイ人たち」。
正直、最初は私もそう思っていたうちの一人でした。
しかし、実際に彼ら(知的にしょうがいのある人たち)と付き合ってみて、その考えは180度変わりました。とにかく生きることに真摯で、自分のペースで、自分の出来ることを一生懸命にする。楽しいと思うことを素直に楽しみ、嫌なことを素直に拒否する。そして、同じひとりの人間として我々や仲間を受け入れ、時には自然な思いやりさえ見せてくれる彼ら。
そこには、打算や、一方的な憎しみや、分を超えた私欲などは全く無いのです。あるのはただ、ヒトとして一生懸命に生きること。いのち。それだけ、なのです。
私はそんな彼らと触れ合うたび、人間の根底には「愛」と「善」があるのだ、ということを学びます。特に重い障害を抱えている人ほど、私にさまざまなことを教えてくれるような気がします。そして、言葉もなく穏やかに隣に寄り添っているだけで、とても幸せな気持ちにさせてもらえるのです。
普段は「何かが・標準レベルで」デキナイ、というそれだけで差別されてしまう彼ら(しょうがい者の人々)から、実は私たちは多くのことを学び、心豊かにさせてもらうことが出来るのです。誤解を恐れずに言わせてもらうなら、それだけでも彼らのいのち、その価値は計り知れないものであると、私は思うのです。
私は「障害者」という言葉を、彼らに障害があるから、という意味で捉えていません。私たちの社会が、彼らにとっての障害を作っているだけなのです。
(これを書くとさらに誤解を招くかもしれませんが、)ゲイである私は、この社会で生きることに多少の障害を感じています。ゲイであるというだけで蔑視の対象となったり、酷い場合は社会的にも差別されてしまったりするのが、リアルなこの現代社会です。その意味で、私も「しょうがい者」の一人であると、思っているのです。(もちろん、これは私が「そう感じている」という意味です。)
ゲイである私は、男性でありながら女性を愛することができません。しかし、出来ること・出来ないことは本来、人それぞれ、どんな人にもあることであって、それによって人のいのちの価値が変わるわけではありません。いわゆる「しょうがい者」といわれる人々も、一般に「健常」と言われる人々も、その意味では緩やかなグラデーションで繋がっているのです。
いのちの価値は、みんな同じなのです。私は、そう思います。
名古屋市のいわゆる「闇サイト殺人事件」では、何の罪も無い女性が僅かなカネ目当てで酷い殺され方をしました。被告の3人の男たちは、捕まってからも反省の色なく、被害者や被害者の母親を侮辱する発言を繰り返したといいます。たしか「(遺族は)運が悪かった」とか、「名古屋市の数千人(数万人?)のうちの一人が居なくなっただけのことだ」など・・・大切な人のいのちの重さというものを、踏みにじるような言葉です。
被告は二人が死刑になり、一人は無期懲役の判決です。
私は死刑の是非を論じるつもりはありません。ただ、こう思うのです。
今回、死刑となった二人は自分のいのちの価値をもって、この社会の影の部分に光を当て、それを自分のいのちと一緒にあの世へ葬り去ってほしい。そして、生き残った一人は自分のいのちの価値をもってこれからの長く辛い年月の中で反省を重ね、必ず被害者と遺族への償いをしてほしい。
〜みんな生きている。いのちがある。自分とつながっている。〜
その想像力を、私は失いたくありません。