ぼんやりとした関係

 何だか毎日が目まぐるしくて、背中を押されて追い立てられているような毎日なのだ。おまけに、ここのところちょっとマイナス思考に陥っていて、わけもなくイライラ・・・。
 そうは言っても、こんな現状を招いたのはすべて自分が蒔いた種なのだから、愚痴を言っても始まらないのだけどね。
 この週末はゲイ関連のイベントがあって、hiroc-fontanaも参加したのだけど、それぞれが抱えているであろう孤独感や将来への漠たる不安も何のその、「今を懸命に生きるゲイたち」の一体感は素晴らしく思えたのね。ある人は舞台の上で素晴らしいパフォーマンスを披露し、ある人は裏方として全力を尽くす。ある人は会場から温かい声援と拍手を贈る。役割は違っても、とにかく「ゲイ」であるという連帯感を武器に、皆で今この瞬間を輝かせたいという思いが会場全体に溢れていて、なんだか少し感動しちゃったのね。
 ゲイが集まったからって、突然世界が優しく変わるわけでもない。聴衆を魅了するようなパフォーマンスが出来たとしても、それが次世代に引き継がれるわけでもない。あるのは、皆が一緒に体験する、この瞬間だけ。
 でも、そんな「瞬間」に懸命になっている仲間たちの姿が、とても潔くて「いいなあ」と思えたのよね。
 さて、ここからハナシはガラリと変わってしまうのだけど。。。。
 イベント終了後、例によって俺は気の置けない仲間たちと飲んだのだけど。それが、なんだか会話がもうひとつ盛り上がらなくて。。。参ったナ〜って感じ。俺以外はお酒があまり飲めないメンツだったし、皆ひさびさに顔を合わせたせいもあるのだけど、お互い「もう一歩」の歩み寄りが足りない感じがあって、終始お互いの間の壁が取り払えなかった。俺にはそれが凄く残念でね。。。もちろん、そういう俺自身も、ダメだったのだけどね。
 前にも書いたことがあるのだけど、ゲイのトモダチっていうのは、自分を含めてどうもお互いのテリトリーを尊重しすぎるきらいがあって、それはある意味、心地よい関係性を保つには必須事項なのかもしれないけれど、逆に作用すると、今回のようになってしまうのね。
あ〜今日も楽しかったな〜だけで終わっちゃう。俺は本音ではそれはイヤで、ゲイという本質的な部分をさらけ出している以上、プライベートもどんどん晒して、もっともっと色々なことを分かち合いたい、と思っているのだけど・・・いざ自分を振り返れば、やっぱり自分も「壁」を作ってしまっていてね。。。
 思うに。。。ゲイ同士の間柄っていうのは、トモダチと恋人の境界線がとてもあやふやで、自分で「エイ!」と線を引かないといけない部分が少なからずあるのよね。もちろん、全く“タイプ”じゃない相手なら、最初から「恋人」という線はないのだけど、多くの場合、どちらかが(あるいは双方が)相手の何かに惹かれて近づいていくことがきっかけでトモダチになれるのであって、その前提にはほんのごくわずかでも「恋人候補」としての視点が加わっているような気がするのよね。
 例えば。片方の人が「あの人いいな〜」と思って話しかけていくとする。だけど相手は「タイプじゃないけど気が合いそうだな」と思うだけだとする。ただそんな場合でも会話は成立するから、お互い一歩近づくことはできるけれど、恋人同士にはなれない。そんなとき、好意を持って近づいた方は「ああ、恋人としての脈はないな」とすばやく感じ取って、そこで「エイ!」と線を引いてそこから「トモダチ」関係が始まるのだ。あの人とは、恋人同士にはなれないけれども、トモダチになれるならそれでいいや、というわけね。
 何を言いたいのかというと、親しい人間関係の根底にお互いの「好意」があるとすれば、ゲイの場合、その好意には僅かながらも「恋愛感情」が含まれている場合が少なくなくて、それをお互い見ないフリをしてつきあっていることがままあるのよね。(男女のトモダチ関係も、そんなものでしょう?おそらく。)
 だから、その結果として、お互いの間に無意識のうちに「壁」が出来上がっていたりするのだ。いくら仲良くしていても、深入りしてはいけない、と言うような。どこか無意識のうちに、一線をこえてはいけないという自制が働いてしまうような。
 そうなのだ。俺が飲んだ「気の置けない」仲間たち。俺はかつて、そのうちの一人に確かに憧れていたし(実際彼はモテるのだ)、また俺自身にしても、別の一人から間接的に好意を示されたことがある。まあ自分の場合は思い過ごしかもしれないけれど、とにかく今は「トモダチ」でしかない仲間でさえ、こんな有様なのだ。
 もちろん、ゲイ同士でも唯一無二の親友としての関係を築いている人たちは大勢いるし、俺自身も、親友一歩手前の友人は少なからず、いる。
 ただ、パートナー(夫婦)の関係が性的な結び付きから始まるものであるとするなら、一方で性的に無関心であるからこそ親しくなれる間柄というものもあって、それが親子や兄弟姉妹であったり、俺にはヘテロの世界での「親友」関係もその延長線上にあるような気がしてならないのね。
 そんなことを考えた場合、この世界にデビューしてまだ10年も経っていない俺の場合、やっぱりまだ回りの友人達に「性的無関心」を装うレベルには到底達していなくて、お互いに自然な無関心が表せるような関係を築くまでには、俺にはまだ時間が必要なのかもしれないな、ということをつくづく感じてしまったのね。
 大勢の中での連帯感に酔いながらも、少人数での関係にはまだまだ酔えない自分。それが、現実だったのよね。