今生の別れは辛く、遺伝子ばなしはフクザツ(笑)。

 先日、知り合いの女性が交通事故で突然亡くなられたのね。さほど親しくはなかったけど、時折お会いしたときの温かいお人柄とか柔らかな物腰の印象で、俺は結構その人のことが好きだったのね。それで葬儀にも参列したのだけど、その女性が送られてきたこれまでの人生の重みだとか、突然愛する人を奪われたご家族の悔しさとか、考えれば考えるほどに悲しみが込み上げてきて、涙が止まらなくなっちゃってね。
 人生経験を重ねるにつれ、大抵のことには慣れて冷静に対処できるようになっていくものだけど、こと「人との別れ」だけは、歳をとればとる程に、それを経験すればする程に、どんどん辛さが増していくような気がするのは何故なのだろうな、なんて思った。それこそ人生の奥深さよね。
******************
 さて話はコロッと変わって。また別の日、年配の歯医者さん(ノンケ)と飲む機会があって、なぜか遺伝子の話が出たのね。曰く「われわれ生き物はみな、ただ純粋に後世に生き残ることだけを企てる遺伝子の“乗り物”に過ぎないんだよ。」というような話。どこかで聞いたような話でしょ?そして最後には半ば予想通り(笑)話は転んで「独身のまま生命を終えるのは、遺伝子としては失敗なのだ。」みたいになっちゃった。つまり「お前もいいかげんに結婚しろよ!」の強要ね。やれやれ。
 だからさあ〜、俺は結婚したくても出来ないんだってば。ゲイなんだもん。
 そういえばどこかの石頭のトンチンカン都知事も同じような発言をしてたっけ。「同性愛者は遺伝子的欠陥。見ていて気の毒になる。」みないな。どうしてそうなっちゃうんだろう。。。
 そもそもゲイは遺伝するのか、先天的なものなのか、というテーマは昔から議論されてきたようで、仮にもし、遺伝によってゲイが生まれるのだとしたら、それは病気ではないし、ましてやライフスタイルでもなくなるわけで、今までのように面白半分での差別対象にはなりにくくなるはずなのよね。
 ゲイ遺伝説でよく言われるのは、自分がゲイであったら、母方の叔父さんや従兄弟にゲイの人がいる(いた)可能性が高い、とかいう説。その説を唱えた学者はゲイを決定する遺伝子を特定したという話もある。また、双生児のゲイ発生率についての研究もかなり進んでいて、男性に関しては5割を超える発生率で双子の片方がゲイであればもう片方もゲイであった、なんて調査結果もあるようで、ゲイ遺伝説は確かに存在しているみたいなのだけど、いかんせん、これら調査はサンプル数が少ない(カミングアウト者の少なさに起因?)という重大欠陥もあるらしく、信憑性においてまだまだ疑問視されているみたいなのよね、残念ながら。
 それにね、ここにはもうひとつ問題があって、もしある遺伝子によってゲイが先天的なものとわかったとして、妊娠時の胎児の遺伝子検査でその原因遺伝子が見つかったら、親の一存で堕胎が行われたりする可能性も出てくるという、それはそれで人権問題に発展する要素があるわけで、一部のゲイ団体が遺伝子研究そのものに反対していたりもするみたい。いろいろ難しいのね。
 えーと、結局何が言いたいかというとね。
 生物学的に失敗だとかなんだとか言われようと、僕らゲイは望む望まざるとに関わらず、ずっと昔から確実にこの世に生まれてきていて、いまもこうして一つの人格を持ってここに存在しているんだぞ、と。
 いや、むしろ俺たちゲイは生まれるべくして生まれているのだ、と。それは当事者であるゲイ自身がよくわかっていることで。人口抑制のための自然の摂理だとか、突然変異だとか、わざわざ誰かに証明してもらわなくても、俺たち自身がそれをよくわかっている、ということ。もう、それで充分ではないかと。
 
 さて、冒頭のエピソードについてだけどね。
 こんな俺も人並みに人生経験を重ねてきて、その中で人々とそれなりにつながって、誰かが亡くなれば人として自然に涙を流してしまうわけで。こうして俺なりに重ねてきた人生を、失敗だとか、可哀そうだとか、他人から簡単には評価して欲しくないな、と思うのだ。子孫を残さない人生は、生命連鎖のタテ線の中ではたしかに存在感が薄いのかもしれないけれど、いざヨコ線で見れば、いまの自分は言うまでもなく沢山の命と繋がっていて、それを誇りに思いたいな、と。
 それにね、例えばひとつの命が終わったとして、その喪失感を埋めるものは、残された“遺伝子”なんかでは決してないと思うのだ。いくら残されたご子息やご兄弟が、死んだ本人に遺伝子的に似ていたからといって、失われた命の代わりには絶対にならない。その意味で、今この世界で出会っている命すべては等しく何ものにも代えがたい価値があって、決して遺伝子の“乗り物”なんかじゃない、俺は、そう思うのだ。