なんのため、だれのため

 先日、ゲイの友達がやっているボーカル・グループのコンサートに行ってきたのだ。本人たちは謙遜していたけれど、ステージもパフォーマンスも本当に素晴らしくて、俺、なんだか感動しちゃったのね。みんな、その瞬間に全身全霊を込めて、それぞれのやり方で自分を一生懸命に表現しようとしているのがビシビシ伝わってきてね。
 でもその感動の反面、「羨ましいな〜」という感情が抑えられなかった自分もいた。俺はこれまで、一度でも彼らのように活き活きと自分を表現して来られただろうか…ふと、そんな思いが湧いてきたのだ。
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 昨日、テレビで女優・淡路恵子さんが、彼女が姉のように慕っていた淡島千景さん(今年2月逝去)とのエピソードを語っていたのだけど、生涯独身だった淡島千景さんが淡路恵子さんに語ったという言葉がとても印象的だったのね。曰く、“あなたは、芸をするのに「家族のため」というのがあるから、いい。私には「何のため」もないのよ。”と。
 この言葉にガーン、と来ちゃった。そう、これって俺も同じだんだよな、と。
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 俺は休みの日にひとり旅をしたりして気を紛らせている。旨いものを食べ、美しいものをこの眼で見て、また旅行者として土地の人々との一期一会を愉しんだりもしている。でも、これが「何のためか?」と訊かれたとき、「想い出づくり」「人生を愉しむ」「疲れを癒やす」など、答えはいくつも用意できるけれど、どれも俺の本心ではない。本当の答えは何のことはない、「自分のため」なのだ。でも、この答えが、本当に「何のため?」の答えになっているか、掘り下げていくと決してそれが答えでは無いようにも思う。だから、淡島千景さんは「私には、何のためもないのよ。」と言ったのだろう。そんな気がした。
 所詮、旅行なんてそんなもの、と言われるかもしれないけれど、これが家族旅行であれば、少し意味合いが変わってくる。同じ「想い出づくり」「人生を愉しむ」ことだとしても、少なからずその楽しい想い出は子供の心に染み入り、その心を豊かに染め上げて、いつの日か別な形で次の世代へと引き継がれていくのだ。そう、それは紛れも無く子供たちのため、なのだ。
 「仕事を取ったら何もない人。」そう言われる数多の平凡なお父さんたちは、そんな意味で「なんのため、だれのため」を持って生きているぶん、救われているのかもしれない。答えは、「家族のため」だ。そしてそのようにしてこれまで、名もなき市井の人々のほとんどは平凡ながらも懸命に生き、死んでいったわけで。
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 さて、ゲイの友達の創ったステージが何故あれほどに気合の入ったものだったのか。それは必死に「なんのため、だれのため」を探していたからのように思えてならないのよね。「家族のため」ではなく「一緒にステージに上っている友達のため」でもなく、ましてや「観客のため」でもない。それが「自分のため」であるかも、ハッキリしないまま、必死に答えを探していたのだと思う。だから俺も、そんな彼らを見て感動してしまったのだ、きっと。
 なんのためか、だれのためか、わからない。でも自分がこの瞬間ここに生きて、精一杯に自分を表現している姿を誰かに確認して欲しい。彼らはそんな風に見えたのだ。そして、その表現手段を得ている(もちろんその表現に巧い・下手はあるけれど・・・)彼らを、俺は心から羨ましいと思った。
 今の俺に言えることは、「なんのためでもない。こうして生まれて、ただ自分は自分である」ということだけ。俺が生きて、今までしてきたことが「なんのため」だったのか、その答えは、きっと死ぬまでわからないのだろう。
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 最後に1曲。この、平凡を装った男の「強がり」が、何故か今の自分の心情にピッタリくるのです。
時代おくれ」(1986年 歌唱:河島英五、作詞:阿久悠、作曲:森田公一

目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは 無理をせず
人の心を見つめ続ける
時代おくれの男になりたい

 いつか、こんなふうに悟れる日が来るのかしら。。。と。