「チョコレートドーナツ」

 集団的自衛権に関する憲法解釈変更が閣議だけであっけなく決まってしまったり。それに抵抗して新宿駅前の群集の目の前で焼身自殺を図ってしまう人がいたり。はたまた、記者会見で子どものように泣きわめく県議がいたり。下品で偏見に満ちた野次を飛ばす都議が大勢いたかと思えば、それを追求されれば或る者は平気でしらを切り、ある者は知らん顔。。。
 本当にこの国は大丈夫なのだろうか・・・と、次々に押し寄せては消えていく不快なニュースの数々に無意識ながら違和感を抱きながらも、小市民なりの日々の忙しさにかまけて、何となく全てをスルーしてしまっている今日このごろ。決して政治に対する興味が薄れたわけではないのだが、年齢を重ねるとともに物事すべてに対して感性が鈍くなってきているということだけは、確かなようだ。
 さて、そんな殺伐とした日々に何か心揺さぶられる刺激が欲しくなって、久しぶりに映画でも観ようかと思い立ち、新宿の映画館に行ってきた。
チョコレートドーナツ」(原題「Any Day Now」)。

ゲイのカップルが、アパートの隣の部屋に住む、育児放棄に遭ったダウン症の少年を引き取って育てていくという、実話をもとにしたヒューマン・ドラマ。70年代のカリフォルニアを舞台に、偏見の強かったその時代ならではの数々の困難に直面しながらも、性別や血縁をも超越した正に「人間同士の情愛」を糧に、それらに立ち向かおうとする主人公たちの姿に、思わず涙がこぼれた。
 
 実は映画を観ながら、俺はある人のことを思い出していたのね。
 それは、前の職場(知的障害者施設)で出会った、男性利用者のKさんのこと。Kさんは重度のダウン症で、ほとんど言葉を話せないばかりか、片手が不自由なために日常生活の大部分で介助が必要な方だった。言葉が話せないKさん、しかし一方で表情がとても豊かで、30分も一緒に居れば「喜怒哀楽」すべての感情が、その丸いお顔から溢れ出てくるような人。(誤解を承知で言えば、まさに体の大きな「赤ちゃん」。)そんな人だから、同居していたご高齢の両親からはもちろん、不思議と誰からも愛される存在で、俺も職場でKさんに会えるのが毎日の楽しみのひとつだった。
 そんなKさんと出会って1年目、こんなことがあった。施設で初めて一緒に旅行をして、俺はKさんの担当として2日間、行動を共にしたのね。頑固で、気に入らないことがあるとすぐ座り込んでしまったり、食事場所では「わ〜〜(ご飯のおかわりはないのか?)」と大声を上げるKさんに翻弄されるばかりの俺だったのだけど(苦笑)、帰りのバスの中、いつになく満ち足りた表情を浮かべていたKさんがおもむろに俺の手を取り、俺の手のひらの真ん中を円を描くように、優しく撫で始めたのだ。まるで「楽しかったよ。旅行の間、いろいろと世話になったよ。」とでも言いたげに。そして、そのあと、思わず涙ぐんでしまった俺の目を、Kさんはじっと覗き込んだ。そしてニコッと笑ってくれたのだ。それは、発語が無く、直情的(野性的)にも思えたKさん、実はその心の中には健常者に勝るとも劣らない、実に豊かな人間性が備わっていることに、遅まきながら気付いた瞬間だった。
 俺がKさんと出会った頃はまだお元気だったKさんのご両親が、数年前に相次いで亡くなり、嫁いだお姉さんも自分の家庭で手一杯であり、結局、面倒を見てくれる人がいなくなってしまったKさんはいま、地方の入所施設で暮らしている。
 映画「チョコレートドーナツ」では、ゲイのカップルが家族に恵まれないダウン症の少年を心から愛し、育てようとする。一方で愛するご両親が相次いで亡くなり、遠く離れた施設の(他人の)中で独り、暮らすことになったKさん。Kさんのことを思い出しながら、俺は心の片隅がチクリと痛んだ。
 俺にも何か、できることがあったのではないか。。。
 何も出来ないことは、わかっていてもね。

 さてこの映画、ドラマとしてとても良く出来ていて、主演のアラン・カミングダウン症の少年役アイザック・レイヴァももちろん素晴らしいのだけれど、ゲイでありダウン症の人々との交流も経験している自分としては、もっと主人公と障がいをもった少年との魂の交流や、軸となるゲイのカップルの愛と葛藤を丁寧に追っていってくれたら、文句なし、だったのにね、なんて思った。まあ、見過ごせない沢山のエピソードを盛り込んだ映画だから、それは贅沢な要求なのかもしれないけれど。