歴史的な、あたりまえの出来事

 6月26日、アメリカの連邦最高裁判所が、全米すべての州での同性婚を合法的なものとして認める判決を下しました。

 普段はゲイであることをひた隠しにしている"クローゼット・ゲイ"である私が、偉そうなことは何も言えないのですが、今回のこのニュース、日本ではあまり大きく取り上げられることはありませんけれど、そんな中でもしみじみと感じたのは「(相変わらず混迷を極めている)この世界は、それでも確実に進歩してきているのだ」ということです。
 つい最近まで、いわゆる「普通でない」といわれる人々が、「普通に見えない」というただそれだけで、虐げられ、区別され、侮辱されるのが「フツーだった」この世界。
 ましてや、女性として生まれたばかりに、ただ男と比べてイッパン的に非力であるという理由、ほぼそれだけで蔑まれ、区別されていた時代が終わったのも、たかが100年程度前の話。(いや、正確にはまだ終わっていないのかもしれませんが。)
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 仕事で障がい者と身近に接している私は、ここ10年における障がい者の人権回復に関する、社会の目覚ましい動きを目の当たりにしてきました。最近のトレンドは「合理的配慮」という言葉であり、それは言わば、障がい者が健常者と同じ土俵で社会参加できるように社会全体が配慮していくことは、至極当たり前の事でしょ?という考え方です。たとえば新聞にルビを振って読みやすくするとか、文字を大きくするとか、誰でも手が届くように切符の自動販売機の高さを低くするとか。つまり、ハンデのある人を「上から手を差し伸べる」のではなく、「同じ目線で後押しする」という考え方であると私は捉えています。また、そうしていくには、必然的に私たちは「同じ人間として」障がい者に対する理解が求められることになるわけで、蔑んだり、区別したりすることなどもっての外、ということになるわけです。こうした考え方の進化に、職業的立場からついていくことは大変なのは確かなのですが、心の中では当然の流れとしてすんなりと受け入れているぶん、辛いとか厳しいなどと感じることは全くないのが少し不思議な気分で、またどこか嬉しくもあったりします。
 一方で、私はゲイとして、何故、お前は男なのに男性にしか興味がないのか?女性と結婚して子供を設けることが出来ないのか?と、虐げられ、侮辱される恐怖に怯えて、今まで生きてきました。障がい者の人達の人権尊重が声高に叫ばれ見直されていくのを横目に・・・。
 見た目はほぼ健常なのに、どこか変わった趣味を持っている人間。自分たちには理解できない人種。でも見ているぶんにはどこか滑稽で面白い。それが、ゲイに対する多くの「フツーの人たち」の見方なのかもしれません。だから、ちょっと、バカにしたくなる。
 私自身、例えばコスプレのような一風変わった服装をしている人であるとか、セミの抜け殻だとかデパートの紙袋だとか、到底理解不能な収集癖のある人を見ると同じような見方をしますから、その感覚はわかるような気がします。
 しかしながら、そうした一風変わった趣味の人でさえ「個性」や「独自の感性」といった言葉でそれぞれを認める風潮が主流となってきた昨今、もしかするとそれは、究極の「不干渉=不感症」の時代になってきているということなのかもしれません。。。だからこそ、ゲイの人達がフツーに結婚したいと言っているのだから、認めてやってもイイじゃない?という風に、ゲイの権利も認められやすくなってきたのかもしれない。そんな風にも思えてくるのです。
 いいえ、だからと言って、市井の人間として真っ当に義務を果たしながら、自らがゲイであることに誇りを持って、その権利を「フツーの人々」に伝えて下さった偉大な先人たちの努力があってこその今であることに、変わりありません。彼らが胸を張って、ゲイとしての生き方を、それがフツーとかフツーでない、とかいう次元で区別すべきものではない、まぎれもない真摯な人生のひとつであることを周囲の人に示してくれ、理解を得てきたからこそ、今があるのです。
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 そして今回、初めは遠い海の向こうの出来事のように感じていた私もここにきて、
 ゲイとして生まれたこの人生を、一人の人間として、胸を張って生きていかなければいけない。
と、強く思うようになってきました。
 おそらく本当は当たり前のことなのだけれど、私たちとしては決して見過ごしてはならない、2015年6月の終りの出来事です。