おもんばかる

 「慮(おもんばか)る」。
 ネット辞書によれば、以下の解説があります。

「慮(おもんばか)る」とは
(「おもいめぐらす」が変化した言葉)
 何かを実行するときに、周囲との関係や将来への影響など、あらゆるケースを考え合わせる。よくよく考える。思いめぐらす。考慮する。

http://hyogen.info/word/9889749
 
 ご無沙汰しております。
 わずか1カ月の間に、色々なことが起きてしまいました。
 熊本地震。そして、時を同じくして地球の反対側ではエクアドル地震
 被災された人々の為に、自分に何ができるのか。何も出来ないからこそ、せめて被災者の方々の気持ちに寄り添って、思いめぐらすことだけでも続けていたい、そんなことを考えていました。
 とは言え、いまさらそんな気持ちをここに書いたとしてもどこか“空回り”ばかりの感じもしておりました。
 その頃、ちょうど愛用している手帳用のボールペンが何かの拍子にペン先のボールがうまく回らなくなって、意味のある言葉をいくら書き止めようとしても途中でインクが切れて文字さえ満足に書けない状態に陥ったりしまして、何だかそんな歯がゆいエピソードが、如何にも今の自分を象徴しているかのように感じました。
 あまりにインプット情報が多すぎて、アウトプット経路が“ジャム”を起こした状態、とでも言いましょうか、そんな1か月でした。

 
 私的なところでは、先日、親友の最愛のご家族が亡くなられたのですが、親友が本当にそのご家族を心から愛していたことは周りの誰もが知っていましたので、結局は「他人」に過ぎない私なぞ何が出来るでもない事はわかりつつも、どうすれば打ちひしがれた彼の気持ちに寄り添えるのか、それを“慮る”こと、まさにそれが私にできる唯一のことのように思えて、それこそ全身全霊を込めて彼と亡くなられたご家族の心に少しでも近づけるように祈ったのです。
 でも白状します。私には、それがとても難しかった。。。いくら気持ちに寄り添うことに専念しようとしても、結局は周囲をぐるぐると回るばかりで、相手の本当の気持ちには決して近付くことが出来ない。私には、その方法がわからないのです。絶望的なくらいに、そのことだけが、分かってしまったのです。
 考えてみれば、そんなこと、今までほとんどしてこなかった自分。。。結局のところ、人のことは二の次、共感など脇に除けて、自分勝手に生きてきた自分であったことを今更ながら知ったのです。

 そして、こんなことも。
"だから、hiroc-fontanaさんって、キライ。すごくイヤ、そういうところが。"
 去年の年末、忘年会の席で、10年来の友人から、面と向かってそう、言われました。その友人は年下ということもあって、私、気安くアレコレと、言い過ぎていたのですね、それまで。「学歴や知識を笠に着て、いつも上から目線」。それが、彼から見たhiroc-fontana評でした。ショックでした。自分としてはそんなつもりは全く無かっただけに。
 この4月に入って、しばらく音信不通だった彼から「久しぶりに飲みませんか?」と連絡が来たのです。正直、どんな顔をして彼に会えば良いのか戸惑いながらも、彼の方から連絡をくれたというそれだけで、私としては嬉しくて。結局、居酒屋で再会して、時間も忘れるほどに語り合いました。年末の忘年会の席で起こった気まずいエピソードのことには、二人とも全く触れることのないまま。そして、最後まで、彼がなぜもう一度私と会う気になったのかを聞かないまま。
 私はいまも、彼の本当の思うところは何だったのか、よくわかりません。でも、そうした関係をギクシャクさせたまま、面倒だからと言って遠ざけておくばかりだったこれまでの自分が間違っていたことを少しだけ、反省ました。

 自分でない、誰かの気持ちをただじっと、静かに「おもんばかる」こと。
 おそらくその面での感性に欠ける自分だからこそ、その努力だけは続けなければいけない、と思っています。