メモランダム2016.10.27

 ここ数年、国営放送の朝ドラにすっかりハマって、ずっと見続けているのですが、今回の『べっぴんさん』には、イマイチ入り込めずにいます。まあ、まだ始まったばかりなので評価を下すのは早い気もするのですが、前々作『あさが来た連続テレビ小説 あさが来た 完全版 ブルーレイBOX2 [Blu-ray]から三作連続で“実在の女性をモチーフにした立身伝”が題材になっていまして、さすがにマンネリ感を拭えない気がして、そこが中々気持ちを入れ込むことができない理由のひとつであるのは確かなようです。
 ただ、ここ三作で共通していることがもう一つありまして、もしかしたら、かの国営放送局は、そこを狙って同じような題材にしたのかしら、なんて穿った見方もしたりしています。
 それは、立身伝を通じて戦時中の日本を描くことで、暗に戦争反対を訴えているのでは?ということ。前作「とと姉ちゃん連続テレビ小説 とと姉ちゃん Part1 (NHKドラマ・ガイド)、今回の「べっぴんさん」共に、太平洋戦争のもと、主人公達は回りから少しずつ食べ物や生活物資が無くなり、大切な人が居なくなり、それまでの何気ない日常生活が失われていく経験をします。そのうえ疎開先では穀潰しの如く扱われて肩身苦しい思いをし、隣組では女系家族ゆえの差別を受けたりしまして、非常事態に陥ったときの人間の醜さを目の当たりにするのです。
 翻っていまの日本、アブナっかしい安倍ちゃんオママゴト政権のもと、この国はいつでも戦争が出来る国作りへと邁進し続けているように見えます。そして、マスコミはもはや政権批判を出来ない体制に飲み込まれてしまったようで、テレビも新聞も現政権のすることに対しては頑なにただ口を閉ざし続けているように見えます。
 そんな中、国営放送の朝ドラだけがドラマというツールを通じて、マイルドに戦争に反対し、静かに平和を訴えている構図、私にはそう見えるのです。
 周辺国の脅威イコール国防、イコール軍備増強(→やがて戦争!)という安直な思考があたかもスタンダードのようになり、じわじわと“それも仕方ない”という風潮になって来ているのは怖い事だと思います。
 まずは外交と対話、そして相互理解ありきのはずなのに、その地道な過程がスッポリ抜けてしまっている気がするのです。
 イギリスのEU離脱に始まり、アメリカ大統領選のあまりの異常さ(軽薄な言葉での罵り合い!)を見るにつけ、世界中がどこか短絡的になって、おかしな方向に進んでいるように思えます。

戦争中の暮しの記録―保存版

戦争中の暮しの記録―保存版

 ↑やはり、市井の人々の感覚、実体験こそが正しく、強い説得力を持っているのだと思います。ドラマ(「とと姉」)の中にも出てきた、雑誌「暮らしの手帖」の戦争特集。当時の日常品や服装が写真やイラストで紹介され、人々の暮らしぶりを伝える記事や、貴重な体験談がたっぷりで、ある意味あらゆる角度から戦争の真実が生々しく記録された充実の一冊。すっかり朝ドラかぶれの私ではありますが、この本、買って良かったと心から思います。オススメです。
 

  • 経る時

 一カ月近く、記事が書けませんでした。
 私にとって「書く」という行為は、自分の存在を他者のみならず自分に示すための大切な表現手段の一つです。それは変わりありません。人付き合いはおろか、素直な喜怒哀楽の表現すべてが苦手な私にとっては、言うまでもなく“書くことは生きる上で「必要不可欠な行為」”なのです。
 そんな私ではあるのですが、ここに来て自分の中に多少の変化を感じているのです。
 それは、「書く」ばかりでなく「話す」という行為が表現手段としてすこしずつではありますが、自分の中で育ってきつつあるように感じていること。50才を越えてようやく…。
 記事が書けなかった理由は、おそらく、それが大きいのだと思っています。
 つまり、ようやく少しずつ言葉(会話)という表現手段を身につけ始めた私は、ひとりで「書く」行為に至る前に、誰かほかの人と「話す」という行為を取ることで足りるようになって来た、という事なのかも知れません。
 こうした変化は自分でも正直まだ信じられなくて、いつかまた元通りの「書く」行為に頼って生きる自分に戻るのかも知れないとも思っているのも事実です。
 でもその一方で、今、この人生で初めて、気負いなく多くの他者との会話を軽々と楽しみ、自意識とはほど遠い場所で他者と自然なコミュニケーションが取れている自分が確かにいまして、そんな自分を見つけるたび、何だか生まれ変わったような、新鮮な喜びを感じるのです。
 変化のきっかけは何だったのか、それはわかりません。まるで季節が移り変わるように、気づいた時にはすでに変わっていた、ちょうどそんな感覚です。
 

 時はただ流れていくのではなく、人知れず静かに降り積もっていく。

 私が以前から感覚として捉えていたこと、それは間違いなかった。そう思いました。何気ない日常を重ねていても、確かに自分の魂には刻々と何か価値のあるものが刻み込まれている、大げさですが、そんなイメージです。
 ふとユーミンさんの名曲「経(ふ)る時」(1983年のアルバム『Re-incarnation』収録)REINCARNATIONに、そんな暗喩が含まれていることに気づいたのは、恥ずかしながらつい最近のことでした。
 経る時。とは、降る、とき。歌詞の内容は、こうです。
 春、桜の花びらが散るころ、古びたホテルのロビーの窓際の席は“薄紅の砂時計の底になる”のです。しかし、秋も深まったこの季節、窓際から見える枯木立が、桜であることを誰もが忘れている。
 そんな風にして、ホテルはしずかに時を刻み、いつの間に寂れ、ここを毎年訪れる古くからの馴染みの夫婦もいつしか年老いて、それでもふたり、薄日の差す空から降り積む時を眺めながら、窓際の席に今日も座っているのです。
 散り積んでゆく枯葉はまさに、空から降る、とき、そのものなんですね。さすが、ユーミンです。