あきらめるのが好き

毎日、流されているな、と考える。つい、そんな風に自分を責めてしまうのは、俺の悪いクセだ。
世の中はどんどん動いているのに、それをただ傍観するだけで、自分の身の回りの些事に振り回されているばかりの毎日。。。
たとえば、アメリカに危なっかしい大統領が誕生して、世界のステージが確かにグーンと「分裂」の方向に方向転換しているのが、わかる。
そして、そんなアメリカに、忠犬よろしくただシッポを振って付いていくしかない、この国の主体性のなさ、実態の無さに今さらながら愕然として、しかしそう感じながらも、いざ自分を振り返れば、正直、他人事で、どこか遠いところの話にしか感じていないのも確かだったりするのだ。
最近とみに時の流れが早いように思えるのは、そんな、他人事感覚があらゆる場面で自分を覆っているからかも知れないナ。
なんて、反省するフリをする。
 
さまざまなことへの、諦め。そう言ってしまえばキレイに聞こえるけれども、年齢とともに感性に綻びと劣化が目立ってきたことに加えて、確実に加速してきている時代のスピードに、もはやついて行けていない自分であることを悟り始めているのかもしれない。無意識のうちに。
まるで、テレビの前で、早送りのビデオをただ呆然と眺めているような。
はたまた、行く先のわからない急行列車の窓の外を飛び去る 見知らぬ景色を 戸惑いながら傍観しているような。
 
ところで先日、こんな記事を見つけた。→http://news.yahoo.co.jp/story/505
滅多にないと思っていたことが、いつしか繰り返し起こり、それらにすっかり鈍感になってしまっているのは、どうやら自分だけではないようだ。どんなに大騒ぎしたことも、すぐに風化してしまう時代であるのは、たしかなようで。
 
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私の父は、73歳で亡くなった。母は、68歳だった。
五十路を越えた今、自分の余生について考えざるを得なくなってきている俺がいる。
父が逝った年齢まで、あと20年。
たった20年なのか、まだ20年もあるのか。その先があるのか、無いのか。
加速していく時代に飲み込まれて、20年後の自分は「20年なんてあっと言う間だった」とタメ息をついているであろう事だけは、間違いない。
それまでに何が出来るのか。
あれもしたい。これもしたい。それに、できればこんなことも…。
欲張ればキリがない。そして、最早実現させるには手遅れになっている夢の亡骸ばかりがいまだ、自分の心の大部分を占領していることも薄々分かっている。
 
由紀さおりさんが2009年に発表したアルバム「いきる」に収録された、こんな曲がある。

♪「あきらめる」の語源たどると
 「明らかにする」らしいのよ
 自分が自分だと はっきりわかっていく
   「あきらめるのが好き」 詞:山崎ナオコーラ

だから今、自分にできること。
何よりもそれを優先させたいのだ。
愛しているよ。
それを、伝えたい。いまのうちに。ひとりでも・・・。
それで、いいよね、もう。
 

いきる

いきる