太田裕美不遇の時代 その3

 シングル「恋人たちの100の偽り」の不発以降、結局シングルチャートでの「太田裕美」は目立った成績を残せず、ヒット歌手としては次第に第一線を退いていく。その間発表されたシングルには、弾き語り・アコースティック路線の集大成ともいえる曲(「振り向けばイエスタディ」「青空の翳り」)に加え、それと正反対に完全に歌謡曲サイドに軸足を移したような曲(「ドール」「シングルガール」)があり、試行錯誤・迷いの時期であったことが見て取れる。確かこの頃、裕美さんは短期でテレビ番組「スターどっきりマル秘報告」の準レギュラーを努めたりもしており、スタッフ・事務所側としても「タレント太田裕美の芸能界での居場所」について明らかに迷っていたことが想像できる。その背景としては言うまでもなくニューミュージック勢の台頭がある。自作自演アーティスト(渡辺真知子八神純子など)が次々とブレイクし、あるいは音楽的に確かなキャリアとバックグラウンドを持つシンガーが歌謡曲を歌う(大橋純子庄野真代など)など、音楽界が急激にクロスオーバーを始めた時代。その中で、フォークと歌謡曲(アイドル)との微妙なバランスでオンリーワンの存在価値を保っていた歌手「太田裕美」が、新しい波の中で急激に色あせて見えてしまった、というのは自分の記憶からしても確かにあったように思う。CDBOX『太田裕美の軌跡』にシングル「振り向けば〜」と同時期にシングル盤候補として製作され、結局お蔵入りとなった「雪待夜」という曲が収められている。作詞・松本隆、作曲・筒美京平のこの曲は、彼女の曲としては極限まで歌謡曲臭の強い曲(まるで演歌のよう)で、結局スタッフの「良くない」という意見でボツになったという。もはやこの時期の「シンガー太田裕美」からはそれまで彼女が醸し出していた「ニューミュージック的フィーリング」が消失しており、従来のゴールデントリオ(筒美・松本・太田)では、少々時代遅れになり始めた「歌謡曲」以上のものは造り得なくなっていたのかもしれない。
 一方、このころの太田裕美さんのアルバムでは78年2月発売「背中あわせのランデブー」がアルバムチャートのトップテンに食い込んだほか、「エレガンス(最高12位)」「海が泣いている(13位)」「Feelin' Summer(19位)」とほぼ安定的な成果を残していることがわかる。つまりこの時期、彼女は実質上アルバムアーティストへと変化を遂げていたのだ。ヒット歌手からアルバムアーティストへの変貌。アイドル的なものとアーティスト的なものの分裂。そしてそれは全盛期の1977年から進行し、その最初の現れが「恋人たちの100の偽り」の大コケであった、ということ。それが今回のテーマの結論になる。まとめはまた、別の日に(つづく)。Feelin’Summer
(ふー、いつまで続けるんだっしょ。)