恋、メロディ、濃い、メロディ 〜洋楽歌謡曲集

 あっと言う間にGWも終わり。おまけに鬱陶しい天気での通常ウィークの始まりです。こんな時は、無理に頑張ろうとせずに、とりあえず「すべきこと」だけを済ませて、定時でウチに帰って昔の大好きな曲でも聴きながら過ごすのがイチバン。
 というわけで今回は、ちょっと趣向を変えて、今聴くと「これって、歌謡曲? 筒美センセが作曲したの?」と思えてしまうような、でも私の大好きな、濃〜いメロディの(メロディアスな)洋楽たちを集めてみました。安室ちゃんや宇多田ヒカルらの登場で、今や邦楽もサウンド的には洋楽と比べて遜色ない時代になっていますから、いざ改めて70年代〜80年代の洋楽を聴き返してみると、本当にメロディアスで懐かしくて、何となく「歌謡曲」として聴こえてしまう。そんな感じなのかも知れません。
 GW明けのユウウツを振り払うべく、知らない曲も、ご存知の曲も、何となく懐かしみながら楽しんで頂ければと思います。
 まずは、こちら。「カマカマカマカマ・・」のぶっ飛びフレーズが、かつてのトシちゃんみたいです。カルチャー・クラブの「カーマ・カメレオン」(1983)。

 
  
 続いては、バブル期のカバー・シンガー・椎名恵さんが日本語でもカバーしていましたね。メロディー的にはもちろん、邦題もど真ん中の歌謡曲ですね。「愛はかげろうのように」(1982)。シャーリーンさんの貴重なライブ映像です。

 
 
 この方はかの「紅白歌合戦」にも出場した生粋の歌謡曲歌手(笑)。シンディ・ローパー。美しいメロディの名バラード「トゥルー・カラーズ」(1986)。

 
 
 この曲はジャンルで言えばカントリーで、あまりヒットしなかったのですが、艶っぽい歌い方とか、フォークっぽいメロディとか、少し「桜前線」の頃の小柳ルミ子たんみたいな印象で、私、大好きなんです。クリスタル・ゲイル姐さんの「ハーフ・ザ・ウェイ」(1979)。

 
 
 
 次の曲は、映画「フラッシュダンス」のサントラから。そういえばこの映画の主題歌も椎名さんがカバーしましたっけ?ドナサマーのこの曲、とにかくポップで、80年代アイドルが歌っても違和感なさそうと当時から思ってました。「ロミオ」(1983)。

 
 
  
 こちらもカントリー・ソングで、ワタシの大好きな蔵出し曲。哀愁のあるメロディが素晴らしくて、当時はあまりヒットしなかったのですが、あちらでも何度もカバーされている隠れた名曲です。ロザンヌ・キャッシュ「セヴン・イヤー・エイク」(1981)。是非、聴いてみてください。

 
 
 
 さて、洋楽で哀愁歌謡といえば、私にとってはこれを外せません。かの桑田ケースケさんもいかにもなカバーをしていましたね。マーティ・バリン「ハート悲しく」(1981)。マーティさん、そういえばジェファーソンエアプレイのメンバーだったんですよね。ロックからベタな歌謡界への転向。言ってみれば、アリスの谷村さん的な感じでしょうか(笑)。

 
 
 
 最後はやっぱり、カルチャー・クラブ。結局彼らは、存在自体がアイドルだし、歌謡曲なのかな?と。「タイム」(1982)は、彼らの曲の中では少し地味でしたけれど、哀愁たっぷり、美味しいメロディたっぷりの、名曲だと私は思います。

 
 
 
 では、また。

狂おしい想い、蘇る。〜『君の名前で僕を呼んで』

 久しぶりに、胸キュン(苦笑)。こんな安っぽい言葉で表現するのは少し勿体ない気もするのですが、胸がかきむしられるような、あの狂おしい想い、それはやっぱり「胸がキュンとする」という表現がぴったりなわけで、この映画の後半はそれこそ胸キュン(汗)の連続だった私でした。

 1983年夏、北イタリアの避暑地。17歳のエリオは、アメリカからやって来た24歳の大学院生オリヴァーと出会う。彼は大学教授の父の助手で、夏の間をエリオたち家族と暮らす。はじめは自信に満ちたオリヴァーの態度に反発を感じるエリオだったが、まるで不思議な磁石があるように、ふたりは引きつけあったり反発したり、いつしか近づいていく。やがて激しく恋に落ちるふたり。しかし夏の終わりとともにオリヴァーが去る日が近づく……。
(「君の名前で僕を呼んで公式HPより)

 明らかに昨今の映画のトレンドの一つになっている“ゲイ”を題材として、舞台である北イタリアの牧歌的な夏の風景と、その美しさを引き立てる印象的なBGMに彩られた、まさしく文学的な要素に映像的な美しさを織り込んだ高尚な芸術作品としての仕上がりでありながら、その根底には、青年期に誰もが経験したであろう普遍的なエモーション=“胸キュン”がある。ワタシはそんな作品としてこの映画を観ました。アメリカで昨年公開され、こうした映画としては異例の大ヒットを記録したのもうなずける気がしました。
 主人公と同じ17歳のあの頃、私も初恋をしていました。相手は同学年の男性。とは言っても、私がそれを初恋だと自分の中で定義づけたのはずっと後のことで、当時はそうした思いを“単なる”友情であると自分に言い聞かせて、そのように振る舞うことで自分を納得させていたのです。しかし今思えば、単なる友情だとしても、その相手を自分にとってかけがえない存在として想うことには変わりないわけであって、結局はその彼を“好きでたまらない”自分の想いを単純なひとつの言葉に押し込めることなど、到底無理な話なのでした。放課後、一緒に自転車に乗って(時には彼の運転する自転車の後ろに乗せてもらって)予備校に通った高校三年のひと夏。それだけで「自分の青春は、これですべてが揃った」と思えたあのとき。あれはまさにワタシの初恋の瞬間だったのですね。。。
 この映画も(ワタシの青春とは大違いですが(笑))、若く美しいふたりの青年たちのひと夏の出来事、出会いと別れが描かれます。最初はぎこちなく、時は反発をしながらも、お互いにいつの間に心を開き、惹かれ合っていく。そして、結ばれ・・・抱き合い顔を寄せ合いながらオリヴァーが言うのです。「君の名前で僕を呼んでくれないか。

 このフレーズ、狂おしいほどに相手を想う、恋愛の一番燃え上がる瞬間の「一心同体感」を表しているにしては、少し「ん?」と引っかかるところもあって、映画評論家の町山智浩さんの解説によれば、原作者のアンドレ・アシマン氏(NY大の教授)による主人公エリオとオリヴァー、そしてその父への自己投影なのではないか、とのことで、確かにそのように考えると腑に落ちる気がします。それは、年上のオリヴァーが、エリオと結ばれた後にエリオの気持ちを想いやるセリフの中に「オリヴァーもかつて、エリオと同じ経験をしているのでは?」というヒントを与えてくれているし、終始彼らを包容力を持って見守るエリオの父が終盤でエリオに語る言葉(「自分はそのような貴重な機会を逃して後悔している」云々)にも表されているのです。つまりは、アンドレ・アシマン≒エリオ≒オリヴァー≒エリオの父親、そして、観客たちもその延長線上にいるのです、もしかすると。
 そんな意味で、何層もの入れ子状態の結果(苦笑)、この映画は奇跡的に普遍的な“青春期の甘酸っぱい想い”が鮮やかに再現されたのだと思うのです。
 最後の付け足しのようになりますが、出演者たちがとにかく魅力的な映画でもありました。24歳にしては出来上がり過ぎているにせよ、憧れの対象としては完璧なフォルムの“オリヴァー”アーミー・ハマーの美しさは言うまでもなく、それにも増してエリオ役の美少年、ティモシー・シャラメ君は、最初の生意気な雰囲気から次第に「恋する青年」をその眼差しひとつで繊細に紡ぎ分けるような見事な演技で、本当に素晴らしかったです。特にエンディングで、暖炉に向かってのカメラ目線で(家族に背を向けて、というシチュエーションです)ポロリと流す涙に、私は心打たれて立ち上がれませんでした・・。
(もうひとつ付け足しのようになってしまいますが、どこを切っても「絵」になるカメラの構図も際立っていました。)

 あの頃。胸かきむしられる、狂おしい想いをしたことのある、そしてそれを心の奥に大切にしまい続けている、皆さんにオススメ。

メモランダム2018.4.28

 毎日が矢のように過ぎていきます。4月ももう終わり。今年も3分の1を終えようとしているのです。
 
 モリトモ問題から、財務省事務次官のセクハラ辞任、そしてジャニーズメンバーの強制わいせつ。
 
 証拠が無ければ問題なしと言わんばかりに、記憶にない、書類は破棄したなどと、議会の場でさえ誰でもわかるあからさまなウソをつき通してしまえることとか。
 大臣があたかも、酒の席であればたとえ相手を傷つける行為であっても許される、その気にさせた相手も悪い、と言わんばかりの発言をしたり、とか。 
 犯罪的行為を重ねても表沙汰にさえならなければ何も問題はない、何しろ視聴者が自分を求めているのだからと、書類送検された人間がそれを隠してテレビ出演を続けてしまえることとか。
 
 いま、この国のニュースでさかんに取り上げられていることって、根底は全部、共通している気がします。ウソと、権力者たちの驕り(精神的未熟さ)と、根深い性差別と。
 
 言葉にしなくても、その辺のことを何となく感じているのだと思います。みんな。

 そして例えば、安倍ちゃんが首相を下りたとしても、次の誰かがその代わりにウソをつくだろうし。
 たとえ駄目だと頭ではわかっていても、心に染みついた差別意識を理性で排除できないまま、性的嫌がらせを続けてしまう輩は後を絶たないだろうし。
 件のジャニーズメンバーは、きっとほとぼりが冷めたころに、いつの間にか復活してテレビ出演しているだろうし。
 
 そんな風に思えてしまって、どことなく虚しさばかり感じる、今日このごろです。

 聖子さん。今から丁度38年前のお姿です。フレッシュだったあの頃を思い出して。

20周年。の娘。たち

二十歳のモーニング娘。(初回生産限定盤)(DVD付)
 「モーニング娘。まるっと20周年スペシャル!」という番組が、3月31日の深夜から4時間にわたって放送されました。何せ、20年間のシングル曲を一挙放送、というわけで、かつてファンだった(苦笑)ワタシとしては、こりゃ観なくちゃ、ということで、録画。
 BSは、たまにこういったマニアックな企画をしてくれるから、嬉しいわよね。それも、国営放送だもの。(前回の記事で取り上げた「弟の夫」も、そうでしたわね。)
 結局次の休みの日に番組を一気見して(正直、すご〜く疲れた・・・)、モー娘。は、つんくのライフワークとして(ひとりのプロデューサーの“おもちゃ化”していることなど)その是非はあるものの、20年というその歴史だけで充分、存在価値あるグループになっていたということがわかったのよね。
 継続は力なり。
 つんくは、彼本人には色々なことがあったけれど、基本は変わらない。こと娘たちに賭ける情熱と愛情に関しては。(ニンゲンはどうあれ、そう簡単に変われるものではないのだ。)
 デビューから数年は、テレビ番組(「浅ヤン」)とリンクしてのメンバー選抜や脱退をライブ感覚で追う企画やユニット活動など、アイデアの勝利。つんく自身が番組で振り返っていたように、モー娘。という素材を題材にしてさまざまなアイデアが溢れ、それがことごとく当たっていた時期。
 しかしメンバーも時代も、目まぐるしく変化を繰り返す中、変わらない(変われない?)プロデューサー・つんくのアイデアは少しずつ枯渇しはじめて、モー娘。人気は下降線をたどり、試行錯誤の時代が続くのね。
 そして時が経過して、ある時期から、メンバーの顔ぶれと本人たちの指向でグループの方向性が変わり始めて(つんく曰く「ヘタな娘がひとりもいなかった」という、いわゆる“プラチナ期”など)、最終的には時代の中での立ち位置が大きく変化していくようになる。
 今や、アイドルという定義は大人数のグループでこそ成り立つ時代であり、歌ではなくキャラで売る時代であり、テレビで見るのではなくライブで直接“会いに行く”時代に変わっていて。しまいには中学校の授業にダンスが科目として採り入れられるという、20年前には想像も出来なかったことが現実化していて。少女たちがより現実的に「クールにダンスしながら歌う、憧れの対象:アイドル」として彼女たちを見るようになってきたということね。モーニング娘。は、大人数&口パク&握手作戦で売るアキバ系とは一線を画す「実力派」として、いつの間にかその地位が確立していたわけで。
 その、地動説から天動説に切り替わるような発想の転換が、このグループへの評価のカギなのだろうと思う。20年が経過するなかで、いつの間にかその存在が「異色」から「定番」になっていた、そんな感じ。
 
 とはいえ、今では多人数アイドル群雄割拠のなか、メンバーが何人いるのか、誰が誰なのかも全くわからぬまま、ただ茫然と彼女らを見つめるだけの50代半ばのワタシ。残念ながらワタシにとって今のモー娘。は、いわゆる「地下アイドル」と変わらなかったりもするわけで。(ファンのみなさま、ごめんなさい。)
 アイドルそのものが全体にマニアックなものに「個別化」「分散化」してメインストリームから再び遠ざかりつつあるように感じる昨今、これからどのようにその存在価値をキープしていくのか、見届けていきたいと思う。
 
 最後に時代の中で産み落とされた隠れた名曲の数々を紹介しておきますね。
Memory 青春の光」(1999)。海外録音。つんく曰く「好きなことをやりすぎた」。ヤグチのファルセットのハモリにゾクゾク。
 
THE マンパワー!!!」(2005)。これは初期モー娘。の中でダンスフォーメーションの複雑さでトップクラス。目が離せません。
 
リゾナント ブルー」(2008)。プラチナ期のカッコよさが表れた傑作。
 
時空を超え、宇宙を超え」(2014)。新生モー娘。クール・ジャパンの流れで海外でも人気が出始めたころ。

ドラマ「弟の夫」にまつわるあれこれ〜まだ、これから。

“亡くなった弟の結婚相手が、はるばる会いにやって来た。その相手とは、外国人で…男だった。佐藤隆太×把瑠都で贈る、まったく新しい家族の物語。”

 この3月、NHK-BSで放送され、本日最終回を迎えるドラマ『弟の夫』のキャッチコピーです。
 ゲイの世界ではエロティシズム横溢な作品の数々で世界的に有名なアーティスト、田亀源五郎さんの原作というだけでもオドロキなのですが(つまり、NHKの企画担当に田亀作品に触れている人がいた、ということですものね。この企画を通した方の勇気にあっぱれ!です。)、いざドラマを鑑賞してみて、眼差しがとても柔軟で、かつバランスの良いスタンスで作られていたので、ワタシとしてはさすが国営放送!と感激したのです。現実離れした、いかにもドラマ仕立てのエピソードとして同性愛を扱うのではなく、もしかすると現実にありそうな、リアリティあるエピソードとして、終始さりげなくこのテーマを捉えていることに。というよりむしろ、弟の夫という存在自体が、偶々脚本の設定の一つに過ぎないとでも言うような、軽みのあるスタンスがいいな、と思えたのです。お断りしておきますが、私は原作を読んでいませんでしたので、私の感じたことがドラマ制作スタッフの演出によるものなのか、あくまで原作に忠実だったからそう仕上がったのかは、わかりません。(おそらく後者なのだろうと思いますが。)

 ところで日本の国営放送、最近は本当に「攻めている」ように思います。教育テレビ、今でいうEテレは特に。障がい者のナマの声を捉えようと頑張っている「バリバラ」をはじめ、いま日本でイチバン面白い番組と言っても過言ではない「ねほりんぱほりん」(残念ながらシーズン2が終了したばかり)も、Eテレ。まさに日の当たらない部分に光を当てて世に知らしめるというテーマ、これぞ、マスコミの存在価値の一つだと思うのですよ、ワタシ。
 最近、公的機関が主催する、法人向け「LGBT理解のための研修」があちこちで開催されているようで、ワタシの職場にも研修案内のFAXがしばしば届いたりします。そうした点ではこの日本も随分と差別排除に向けて進歩してきたのかも知れない・・と思いながら、「いや、待てよ」とそれに意義を申し立てる自分もいたりするのです。個人的な感覚では、マツコさんをはじめ、キャラとして存在するLGBTは広く認識されているものの、まだまだ世の中は“教育”が必要なほど、理解が進んでいないのか、と。
 つまり、ゲイであることを前面に出して生きるほどの勇気も意地も持ち合わせていないワタシであるがゆえ、クローゼットゲイとして、いまだそんな世の中であることさえも知らずに、周囲はおろか自分さえも騙してここまで生きてきてしまったわけで。意義を申し立てるもう一人のワタシは、無意識のうちにそうした自分を痛烈に批判してもいる(「辛い思いを避けるばかりで、これまで一度も正面切って闘ってないだろう、お前は!だから、現実の厳しさがわからないのだ!」)というわけなのです。
 そうして何層にも分裂せざるを得ないワタシ。とは言え最後は結局、ヒトというものは、自分が経験しないことには何も本質はつかめないまま、歪んだ情報と知識で物事を判断し続けざるを得ない愚かな生き物なのだ、なんていう結論に至るわけです。自戒を込めてね。だからこそ、真の共通理解をすすめるためには、マスコミの徹底した情報提供と、愚民(ワタシを含めてです)への教育は必要不可欠なのだ、と。
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 実は最近、職場でこんなことがありました。
 ワタシ、入社面接に立ち合わされたのです。面接官のオヤジが一人、都合がつかなくなったので、ピンチヒッターとして呼ばれたのです。
 面接と言えば、雇う側が応募者の“人となり”を見る場であると同時に、応募者が雇い主たちを観察する場でもあります。そんな場面で普段の仕事で良くも悪くも我を出しまくっている、面接官(オヤジ)たちが、どんな振る舞いをしているのか、ワタシはどちらかというとそちらに興味があったのですが(苦笑)、いざ参加してみたら案の定、それはそれは酷い有様で・・・。
 応募してきたのは、20代の女性。その彼女、いま同居人がいること、その人とは将来結婚を前提に生活しているが時期は未定であることなど、実生活の現状と将来計画までを正直に話してくれたのです。そうしたら、面接官の中でイチバン権力のある“オヤジA”が烈火のごとく怒り出してしまい・・・。どうやら、彼女からは事前に同居者がいることは聞いていたものの、オヤジAは“結婚前提”の意味を“婚約済み”と捉えていたらしいのです。だから、オヤジとしては「話が違う」と。え?それで怒るの?とワタシもビックリしたのですが、彼女と同年代の娘を持つ“オヤジA”としては、「女性が同棲すること≒同棲相手と結婚すること」という、今となっては国宝級の価値観のまま、今まで(というか、現在進行形で)生きてきたようなのです。だから、彼女が「結婚するかどうか、時期は未定です」といった言葉が、理解できなかった。それで、怒った。それどころか、「あなたは、社会常識に欠けているのではないか」とまで言い切ってしまい、彼女は、俯くばかりで。「●●(←オヤジA)さん、それは少し言葉が過ぎませんか!」と、ワタシ・・・が言えれば良かったのですけど(苦笑)、さすがに烈火のごときオヤジの怒りの炎に油を注ぐわけにもいかず、あとでワタシに質問がまわってきたときに「言いにくいことを率直にお話いただいただけなのに、ごめんなさいね」と彼女にねぎらいを入れるのが精いっぱいでした。ゴメンナサイ、彼女。
 だから面接後の意見交換の場でワタシ、思いきってオヤジAに言いました。「結婚前に同居して、相手と話し合って結婚を決めるのはいまやフツーの話で、結婚時期が未定でも、あるいは結婚しなくても、仕方ないですよ。むしろ、それを話してくれた彼女は率直な人ですよ。」と。そうしたらもうひとりの“オヤジB”が、「ああいう娘は、オトコに付け入って、事実婚を押し付けそうだよね」なんて言ってオヤジAに妙にゴマするものだから、やれやれ・・と、ただ呆気にとられるばかりで・・・(汗)。
 でもその後、痛快だったのは、次の応募者(♂)が開口一番「いま、彼女と同居しています」と(笑)。それが、事前の書類審査でオヤジAがお気にいりだった採用候補者だったこともあって、オヤジAは一挙にテンションダウン。まるで、スカットするあの番組みたいな展開になったのです。
 圧迫面接にもめげずにテキパキと質問に答えた件の彼女は幸い、採用となってまずはメデタシ。けれども、いまだにこんな古いアタマでステレオタイプな男尊女卑オヤジがゴロゴロと世の中に存在している事実が、ワタシにとっては驚愕すべき事実でありまして、これではLGBT理解どころではないな〜、と、打ちのめされた次第です。
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 エンタメ界でゲイを単なる“キワモノ”ではなく、真正面から「そこにいて当然の、唯一無二の存在」として捉えたフィルム作品で、私が人生で最初に感動したキャラクターは、1982年公開の映画『ガープの世界ガープの世界 [DVD]に登場した、ジョン・リスゴー演じる“ロバータ”でした。でもまだあの頃の世の中の捉え方は、「人のいいゲイがいるのは知っているけれど、キモイものはキモイ。」そんな感じだったのかも知れません。映画の中での彼の扱いからすれば。
 その後のアカデミー賞では、「ブロークバック・マウンテン」(2006年)ブロークバック・マウンテン [DVD]が評価されたころから少しずつ、同性愛が異性愛と同等の尊いものとして価値を与えられつつあるのかも知れません。昨年はゲイのアフリカ系青年を主人公にした「ムーンライト」。ムーンライト スタンダード・エディション [DVD]そして今年、作品賞を獲得した「シェイプ・オブ・ウォーター」でも、敢えてそのキャラクターを決定づける重要要素ではない自然な設定として“ゲイの”画家を脇役として登場させていますし、また主演男優賞候補を輩出した作品「君の名前で僕を呼んで(Call me by your name)」も男性同士の恋愛を描いた映画で、こちらも各所から高評価を得ています。
 近年のアカデミー賞ならではの、性差別とマイノリティ排除を是正しようとするベクトルがやや強すぎるきらいはあれ、こうした大きなイベントで出されるそのようなスローガンが、それこそ数メートル範囲の付き合いに終始する大多数の「善良な小市民たち」の生活レベルにどれだけ浸透するのかについてギモンは抱えつつ、それを第一歩として、一方ではドラマで、かたや企業研修を通じて、または無意識な差別者が自らスカット体験に遭うことで(笑)、少しずつ、人として生きる価値は何なのか、平等とは、偏見とは、自由とは、そして、自分と他者はどれほどの違いがあるのか(個性はあっても基本は同じなのだ)ということを、それぞれに気づきを与えうる環境が整いつつあることを信じたいな〜、と。今、そんなことを願っているのです。

スタア聖子は何処へ向かう

 間もなくデビュー39年目を迎える聖子たん。ここのところ、周辺の動きが少しだけ賑やかな感じ。
 80年代のシングルパッケージ『Seiko Matsuda sweet daysSeiko Matsuda sweet days(完全生産限定盤)、そして1997年に夭逝したアレンジャー・大村雅朗氏の追悼盤『SEIKO MEOMORIESSEIKO MEMORIES ~Masaaki Omura Works~と、2カ月連続の編集アルバムを発売。
 どちらも的を得た企画がファンに受け入れられたようで、セイコ作品では久々に「あ○ゾン」で☆が五つ。
 私は後者、大村さんの作品集を入手したのだけど、ボーナストラックの「櫻の園」(マッキーによるリアレンジ)以外はすべて別のパッケージで持っている(曲によっては収録されているCDが5枚くらいあるのよね・・・汗)聴き慣れた曲ばかりながら、そこはやはり大村さん、80年代の聖子サウンドの中心人物だけあって、こうしてシングル曲・アルバム曲入り混じっての「王道・聖子ソングス」が次々流れてくると、ついつい、最後まで聴いてしまうのよね・・・不思議。
 つまりね、近年の聖子さんのマンネリぶりや頑固なまでの変わらなさに文句ばかり言いながら、そういう自分こそが結局は、80年代の聖子サウンドの魅力に今だ捕らわれているわけで。こっちの耳も結局は80年代のままなのよね。きっと。
 とは言え、やっぱりそれだけのパワーがあの頃の聖子サウンド&聖子ソングスにはあるわけでね。だからこそいまだに手を変え品を変えで編集アルバムが発売できてしまう稀有な歌手として君臨しているのよね。
 
 そして、作詞家生活48年目(!)を迎えた松本隆さんの特集番組(3/6NHK「うたコン」〜作詞家・松本隆の世界)で久々のテレビ出演を果たした聖子さん。松本さんをはじめ薬師丸たん、アグネス、原田真二さんなどがNHKホールのステージに登場するなか、なぜかホール近くの高層ビルの展望室めいた場所からの中継で出演する大スタア、セイコ!別格扱いね。主役の松本さんさえステージ上にいるというのに、セイコたんのこの特別扱いはナニ??と感じた視聴者はきっと多かったように思う。
 聖子がそう要求したのはほぼ間違いないながら(苦笑)、NHKサイドとしても、松本先生のトリビュート番組だからこそ聖子さんが「フツーの歌番組」へ出演いただけるわけで、「演出はについては聖子さんのご要望に存分にお答えしますよ」的な、それこそ“忖度”が大いに働いた可能性が高いわね。正直、今ではファンであるワタシにも、それくらい「大スタア」になり過ぎた聖子のイメージが「ステージ上でのひな壇にその他大勢の歌手とともに座っている聖子たん」の姿を、もはや想像できなくさせている気もする。そう、今や“孤高”とも言うべき聖子さん、これからどうするのかしら?
 番組で披露した曲は、松本トリビュートコーナーでは「Sweet Memories」のジャズ・バージョン(録画&ナマうた)と、本人のオリジナル・ステージでは昨年のアルバム『SEIKO JAZZ』から「星に願いを」(おそらく口パク)の2曲で、ジャズ・ミュージシャンとストリングスの生演奏をバックにフル・コーラスを歌ってくれて、ボーカルはいつものモッタリした歌い方ながら、特に「Sweet Memories」は、久々に聴いた人には本来の歌の巧さをしっかりアピールできたかも、と思える集中力あるパフォーマンスで合格点でしたわ。その意味では、ナマのステージではなくて事前の録画でのパフォーマンスだったのは、正解ね。
 そう、大甘なファンであるワタシは、セイコたんの出演が録画だったのも中継だったのも、すべてご本人による「ベストなパフォーマンスを皆様にお見せしたいので。聖子❤」というメッセージとして捉えてしまったわけよね、結局。
 
 さて、早くも、新録のポップスアルバムの発売が6月6日と告知されました。今年はどんなトンデモ・タイトルな曲たちが用意されているのか、それだけが、楽しみですわ(苦笑)。
 そして、そろそろ、過去のTV出演映像集がリリースされてもいい頃よね。期待しすぎずに、期待しておきますわ。
 
 さて、このとりとめない記事の最後に『SEIKO MEOMORIES』収録曲の中で、過去の特集記事「セイコ・ソングス」で取り上げた曲をリンクしておきますね。
黄色いカーディガン
パシフィック
Sailing
ジングルベルも聞こえない
メディテーション

人は三つの顔を持っている〜「スリー・ビルボード」

 近年のオリンピックの主役は、日本の場合、やっぱり女性よね。ここのところ毎回、女性アスリートの方が男性アスリートより多くメダルを獲っているし。今回の平昌オリンピックでも、なぜかバッシングされる“ジャンプ”の彼女も(無事メダルが獲れて少しはバッシングも収まるかしら)、最強スピードスケート陣も(安心して見ていられたわよね)、ホンワカムードと裏腹に手に汗握る試合運びで目が離せなかったカーリング女子たちにしても、女性陣の活躍がホント、目立っていたよね。フィギュアスケートの主役こそ、二人の“王子様”(ユヅ&ショーマ)ではあったけれど、ワタシ的には宮原サトコちゃんの、どこか垢抜けないキャラと、それとは正反対の繊細かつ優雅な演技が大好きで、密かに応援してたのだ。彼女、惜しくもメダルには届かなかったけれど、まだまだ伸びしろはあると思うし、何しろ大舞台でパーソナルベストを出せる肝っ玉があるわけだから、これからに期待よね。
 あ、そうそう、とは言っても今回のイチバンの収穫は、男子カーリングでしたわ。日本カーリングチームの“ムキムキ君たち”も勿論、目の保養になったけれど(笑)、ワタシとしてはなんと言ってもアメリカのおっさんチーム、中でも“マリオ”さんが大ヒット。別の意味で、目が離せませんでしたわ(笑)。
 
 さて、前置きが長くなりました、本題に入ります。今回はジャパンオリンピックチーム同様、女性が主人公の映画をピックアップ。アカデミー賞作品賞にもノミネートされている「スリー・ビルボード」。

 この映画、主題としては「娘を惨殺された母親が犯人捜しをする」ということで、本来はサスペンスとしてジャンル分けされてもおかしくないテーマなのだけれど、実はそう一筋縄ではいかないよ、といわんばかりの斬新な切り口で話が進んで行くわけで、とても面白かったですわ。脚本の勝利、ね。
 冒頭は確かにいかにもサスペンス風にストーリーが進んでいくわけだけど、話が進むにつれてドンデン返しがあちこちに仕掛けられていて「え?そうだったの?」となっていく。でもその“ドンデン返し”の中身がカギで、そこがこの映画の面白さでもあるわけ。ミステリー定番の、いわゆる「こいつが犯人だったのか!」というような一面的なものではなくて、この映画の場合、登場人物のキャラに仕込まれた多重構造が、次の展開を敢えて読めなくするというカオス、そこが「え?そうだったの?」となるのね。
 実際のところ、実社会でも常々、色の濃さ・薄さはあるにしろ、そういうことが起こり続けているわけでね。
 例えば、ガサツでキレ易くて大嫌いな上司が、実は自分を陰ですごく頼りに思って評価してくれていたり。物凄く盛り上がった楽しいデートの翌日、相手から突然、一方的なお別れメールが届いたり。はたまた、コワイと思っていた居酒屋の強面の大将が、実はおしゃべりなオネエキャラだったり(苦笑)。
 え?そうだったの?と。
 それはサスペンスであり、悲劇であり、喜劇であり、心温まるエピソードであり。観方によって七変化するストーリーが、あちこちに転がっているわけで。つまり、人間そのものが自分でも次の感情が予測できないカオスの塊であって、だから人間関係も、展開が読めないカオス状態にいつもあるわけでね。
 映画『スリー・ビルボード』の主人公の場合、娘想いで優しく悲しみに打ちひしがれた母親と思いきや、実は母親としては「かなり難あり」な人物であることが途中で明らかになったり、その主人公が看板(ビルボード)の傍で思いがけず出会った小鹿に優しく話しかける姿にホンワカさせられたかと思えば、次の場面では思わず失笑してしまうようなゲスな憎まれ口を警察官に向かって吐いてみたり。人物を実に多面的に捉えていて、そこがストーリーに深みとリアリティを与えているのね。
 ワタシがいちばんウルウルきたシーンは、病院内での「オレンジジュース」のエピソード。まだ公開中の映画なので詳しくは語れないのが残念なのだけれど、フツーのサスペンスの展開だったらそのオレンジジュースを相手にぶちまけても良いようなところ、登場人物は、そうはしない。だから、え?となって、ウルっとするのね。エンディングも、観終わってすぐは「え?」という印象ながら、あとからジワジワくる感じがまさにこの世の「カオス」であって、やはり良いエンディングだったな〜と思わせてくれる。
 物語の発端は、ミズーリ州の片田舎のほとんどクルマも通らない道端の3枚の立て看板に貼られたメッセージ広告。(本題は「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」。)そのビルボードが3枚あることが、人間の多面性、物語の多面性を象徴しているのかな、なんてことを思ったのだ。
 主演のフランシス・マクドーマンドさん、設定はかなりエキセントリックな役柄ながら、まさに「いるいる、こんなオバサン」と感じさせる喜怒哀楽すべてにリアリティのある演技が見事です。