ドラマ「弟の夫」にまつわるあれこれ〜まだ、これから。

“亡くなった弟の結婚相手が、はるばる会いにやって来た。その相手とは、外国人で…男だった。佐藤隆太×把瑠都で贈る、まったく新しい家族の物語。”

 この3月、NHK-BSで放送され、本日最終回を迎えるドラマ『弟の夫』のキャッチコピーです。
 ゲイの世界ではエロティシズム横溢な作品の数々で世界的に有名なアーティスト、田亀源五郎さんの原作というだけでもオドロキなのですが(つまり、NHKの企画担当に田亀作品に触れている人がいた、ということですものね。この企画を通した方の勇気にあっぱれ!です。)、いざドラマを鑑賞してみて、眼差しがとても柔軟で、かつバランスの良いスタンスで作られていたので、ワタシとしてはさすが国営放送!と感激したのです。現実離れした、いかにもドラマ仕立てのエピソードとして同性愛を扱うのではなく、もしかすると現実にありそうな、リアリティあるエピソードとして、終始さりげなくこのテーマを捉えていることに。というよりむしろ、弟の夫という存在自体が、偶々脚本の設定の一つに過ぎないとでも言うような、軽みのあるスタンスがいいな、と思えたのです。お断りしておきますが、私は原作を読んでいませんでしたので、私の感じたことがドラマ制作スタッフの演出によるものなのか、あくまで原作に忠実だったからそう仕上がったのかは、わかりません。(おそらく後者なのだろうと思いますが。)

 ところで日本の国営放送、最近は本当に「攻めている」ように思います。教育テレビ、今でいうEテレは特に。障がい者のナマの声を捉えようと頑張っている「バリバラ」をはじめ、いま日本でイチバン面白い番組と言っても過言ではない「ねほりんぱほりん」(残念ながらシーズン2が終了したばかり)も、Eテレ。まさに日の当たらない部分に光を当てて世に知らしめるというテーマ、これぞ、マスコミの存在価値の一つだと思うのですよ、ワタシ。
 最近、公的機関が主催する、法人向け「LGBT理解のための研修」があちこちで開催されているようで、ワタシの職場にも研修案内のFAXがしばしば届いたりします。そうした点ではこの日本も随分と差別排除に向けて進歩してきたのかも知れない・・と思いながら、「いや、待てよ」とそれに意義を申し立てる自分もいたりするのです。個人的な感覚では、マツコさんをはじめ、キャラとして存在するLGBTは広く認識されているものの、まだまだ世の中は“教育”が必要なほど、理解が進んでいないのか、と。
 つまり、ゲイであることを前面に出して生きるほどの勇気も意地も持ち合わせていないワタシであるがゆえ、クローゼットゲイとして、いまだそんな世の中であることさえも知らずに、周囲はおろか自分さえも騙してここまで生きてきてしまったわけで。意義を申し立てるもう一人のワタシは、無意識のうちにそうした自分を痛烈に批判してもいる(「辛い思いを避けるばかりで、これまで一度も正面切って闘ってないだろう、お前は!だから、現実の厳しさがわからないのだ!」)というわけなのです。
 そうして何層にも分裂せざるを得ないワタシ。とは言え最後は結局、ヒトというものは、自分が経験しないことには何も本質はつかめないまま、歪んだ情報と知識で物事を判断し続けざるを得ない愚かな生き物なのだ、なんていう結論に至るわけです。自戒を込めてね。だからこそ、真の共通理解をすすめるためには、マスコミの徹底した情報提供と、愚民(ワタシを含めてです)への教育は必要不可欠なのだ、と。
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 実は最近、職場でこんなことがありました。
 ワタシ、入社面接に立ち合わされたのです。面接官のオヤジが一人、都合がつかなくなったので、ピンチヒッターとして呼ばれたのです。
 面接と言えば、雇う側が応募者の“人となり”を見る場であると同時に、応募者が雇い主たちを観察する場でもあります。そんな場面で普段の仕事で良くも悪くも我を出しまくっている、面接官(オヤジ)たちが、どんな振る舞いをしているのか、ワタシはどちらかというとそちらに興味があったのですが(苦笑)、いざ参加してみたら案の定、それはそれは酷い有様で・・・。
 応募してきたのは、20代の女性。その彼女、いま同居人がいること、その人とは将来結婚を前提に生活しているが時期は未定であることなど、実生活の現状と将来計画までを正直に話してくれたのです。そうしたら、面接官の中でイチバン権力のある“オヤジA”が烈火のごとく怒り出してしまい・・・。どうやら、彼女からは事前に同居者がいることは聞いていたものの、オヤジAは“結婚前提”の意味を“婚約済み”と捉えていたらしいのです。だから、オヤジとしては「話が違う」と。え?それで怒るの?とワタシもビックリしたのですが、彼女と同年代の娘を持つ“オヤジA”としては、「女性が同棲すること≒同棲相手と結婚すること」という、今となっては国宝級の価値観のまま、今まで(というか、現在進行形で)生きてきたようなのです。だから、彼女が「結婚するかどうか、時期は未定です」といった言葉が、理解できなかった。それで、怒った。それどころか、「あなたは、社会常識に欠けているのではないか」とまで言い切ってしまい、彼女は、俯くばかりで。「●●(←オヤジA)さん、それは少し言葉が過ぎませんか!」と、ワタシ・・・が言えれば良かったのですけど(苦笑)、さすがに烈火のごときオヤジの怒りの炎に油を注ぐわけにもいかず、あとでワタシに質問がまわってきたときに「言いにくいことを率直にお話いただいただけなのに、ごめんなさいね」と彼女にねぎらいを入れるのが精いっぱいでした。ゴメンナサイ、彼女。
 だから面接後の意見交換の場でワタシ、思いきってオヤジAに言いました。「結婚前に同居して、相手と話し合って結婚を決めるのはいまやフツーの話で、結婚時期が未定でも、あるいは結婚しなくても、仕方ないですよ。むしろ、それを話してくれた彼女は率直な人ですよ。」と。そうしたらもうひとりの“オヤジB”が、「ああいう娘は、オトコに付け入って、事実婚を押し付けそうだよね」なんて言ってオヤジAに妙にゴマするものだから、やれやれ・・と、ただ呆気にとられるばかりで・・・(汗)。
 でもその後、痛快だったのは、次の応募者(♂)が開口一番「いま、彼女と同居しています」と(笑)。それが、事前の書類審査でオヤジAがお気にいりだった採用候補者だったこともあって、オヤジAは一挙にテンションダウン。まるで、スカットするあの番組みたいな展開になったのです。
 圧迫面接にもめげずにテキパキと質問に答えた件の彼女は幸い、採用となってまずはメデタシ。けれども、いまだにこんな古いアタマでステレオタイプな男尊女卑オヤジがゴロゴロと世の中に存在している事実が、ワタシにとっては驚愕すべき事実でありまして、これではLGBT理解どころではないな〜、と、打ちのめされた次第です。
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 エンタメ界でゲイを単なる“キワモノ”ではなく、真正面から「そこにいて当然の、唯一無二の存在」として捉えたフィルム作品で、私が人生で最初に感動したキャラクターは、1982年公開の映画『ガープの世界ガープの世界 [DVD]に登場した、ジョン・リスゴー演じる“ロバータ”でした。でもまだあの頃の世の中の捉え方は、「人のいいゲイがいるのは知っているけれど、キモイものはキモイ。」そんな感じだったのかも知れません。映画の中での彼の扱いからすれば。
 その後のアカデミー賞では、「ブロークバック・マウンテン」(2006年)ブロークバック・マウンテン [DVD]が評価されたころから少しずつ、同性愛が異性愛と同等の尊いものとして価値を与えられつつあるのかも知れません。昨年はゲイのアフリカ系青年を主人公にした「ムーンライト」。ムーンライト スタンダード・エディション [DVD]そして今年、作品賞を獲得した「シェイプ・オブ・ウォーター」でも、敢えてそのキャラクターを決定づける重要要素ではない自然な設定として“ゲイの”画家を脇役として登場させていますし、また主演男優賞候補を輩出した作品「君の名前で僕を呼んで(Call me by your name)」も男性同士の恋愛を描いた映画で、こちらも各所から高評価を得ています。
 近年のアカデミー賞ならではの、性差別とマイノリティ排除を是正しようとするベクトルがやや強すぎるきらいはあれ、こうした大きなイベントで出されるそのようなスローガンが、それこそ数メートル範囲の付き合いに終始する大多数の「善良な小市民たち」の生活レベルにどれだけ浸透するのかについてギモンは抱えつつ、それを第一歩として、一方ではドラマで、かたや企業研修を通じて、または無意識な差別者が自らスカット体験に遭うことで(笑)、少しずつ、人として生きる価値は何なのか、平等とは、偏見とは、自由とは、そして、自分と他者はどれほどの違いがあるのか(個性はあっても基本は同じなのだ)ということを、それぞれに気づきを与えうる環境が整いつつあることを信じたいな〜、と。今、そんなことを願っているのです。