ひとり旅2016〜富山・高岡編

 今年の夏ももう終りを迎えようとしています。皆様は今年、どんな夏を過ごされたのでしょうか。
 ここ数年、夏休みを使ってひとり旅をするのが私の恒例になっておりまして、今年は何がきっかけだったかよく覚えていないのですが突然「富山県に行こう」と思い立ったのです。
 ネットで宿泊地などを検索するうち「高岡」という地が目に留まり、そこに決めました。

(↑しずかな旧い街並みに心癒されます。)
 旅は、土地土地で出会う人々との縁も楽しみの一つではありますが、ワタシは「土地との縁」というのを感じたりするのです。大袈裟に言えば“その土地が自分を呼んでいる”というような。それは多くの場合、あ!行きたい!と思う直感に過ぎなかったりもするのですが、いざ友人に誘われて行った土地でもやはり直感的に「ここに呼ばれて来たのだな」とわかる、何故か“しっくり来る”土地があったりしまして(オキナワとか)、今回の高岡もそうでした。
 なぜそのように感じるのか、例えば前世で縁のある土地だったとか考えるのもそれなりに楽しいのですが、いざ訪れてみると急に天気が良くなったり、なぜか心が軽くなったりという体験、それだけでもう、充分だったりします。(もちろん一方で旅行中ずっと天候に恵まれず、何故か心が重くなってしまったりする土地も、少なからずあります。)
(↑今回も、高岡駅に着いた途端、厚い雲が切れて青空が。)
 さてその高岡、加賀藩主・前田利長が築いた高岡城の城下町で、いかにも加賀国らしい意趣に富む工芸品(鋳物・漆製品など)が店先のあちこちに溢れ、趣ある街並みが美しい、本当にステキな街でした。インバウンドの影響もまだ無く人気(ひとけ)の少ない静かな佇まいの古い街並みを歩きながら、私は文字通り「前世の自分に還った」ような妙な感覚にとらわれていたのです。初めて来た場所なのに、なんて居心地の良い場所なのだろう・・・と。これも、きっと「縁」だったのでしょうね。

(↑レトロな建物を横切るレトロな路面電車。映画のセットじゃありませんよ。)
 以前も書いたことなのですが、ワタシにとっては“ひとり旅”は「日常」でもあるんですね。日々、色々な人とすれ違いながら浅く広く「他生の縁」を交わしていく人生。家族もなく独りで生きていくというのは、多かれ少なかれそういうことなんです。濃密な関係性の中で人と人同士、お互いに強い影響を及ぼし合うようなエピソードからは、いくぶんか縁遠い生き方。
 その意味から言えば、「ひとり旅の“足跡”」がほとんど他人に見える形では後に残せないのと同じく、こうして生きている「ワタシが生きた足跡」って、きっと何も残せないのだろうな、なんて思うのです。それはそれで、仕方のないこと。
 でも今回、わかったことがひとつ、ありまして。
 こうして“ひとり旅”を続ける中で、土地土地で出会う人々との何気ない会話をとても自然に愉しむことができている自分を(今回の高岡の旅で)今更ながら発見して、
「そうか、旅は「人生経験(時の積み重ね)」として残っていくのだ。」
 そんなことを感じたのです。これまでの内気で人嫌いな自分とは、すこしだけ違っている、いまの自分が、旅の途中の、ここにいる、というような・・・ちょっと一言では表現できないような不思議な感覚。
 
 時を重ね、人々とすれ違いながら、たとえ短い時間でも共有できるその時を、すこしずつでも楽しみ、重ねていけること。
 おそらく、それで充分ということなのですよね。きっと。
 

↑藤子F・不二雄さんは高岡出身。氷見線は忍者ハットリくん仕様。

↑ハットリ君電車に乗って「雨晴海岸」へ。素晴らしい地名です。

万葉集にも歌われたという美しい海岸も、そろそろ日暮れどき。

↑日本酒と名物白えびのかき揚げで、ひとり晩餐。シ・ア・ワ・セ。