オール・ソングス・コレクション

 表題のタイトルに決まったみたいね。年末のエントリーでも取り上げた太田裕美さんの紙ジャケ復刻・アルバムBOXのことですよん。アルバム未収録のシングルやカップリング曲も一挙にボーナスCDとして収録、という大盤振る舞いで、これで裕美ファンも納得の企画になったと言えるのかな?4万円弱という価格がネックなのか、思ったよりオーダーが伸びなかったからソニーさんも必死なのかも。でも、どんどん企画が充実して来たのはホントに喜ばしいことで。
 まだーオーダーは規定数の半分も満たない現状ですが、何とかこの企画が実現するよう、hiroc-fontanaは応援し続けます。
 そこで今回、実は古い原稿を掘り出してきたの。10年くらい前、太田裕美オフシャルサイトで「太田裕美論文コンテスト」って企画があって、実はhiroc-fontanaはそれに入選したことがあるのよね。当時は裕美さんの曲「風たち」から取った“WINDS”っていう(安直な!)ハンドルネームを使っていたりして。うう、恥ずかしい。文章も今読むととっても独りよがりで恥ずかしいんだけど(今もそうだけどね、何か?)、でも太田裕美さんに対する愛情がこもっていて、なかなか新鮮な感じなのだ。この論文、もうとっくにオフィシャルサイトからは削除されていて、もう時効だと思うので、ここに再掲載させて頂こうと思う。BOX購入をためらっておられる裕美ファンの皆様にも是非読んでもらいたくって・・・。

「エポックメイキング的存在である。」WINDS
 私と太田裕美との出会いは、11才の時、理髪店を営む実家の店先だった。
 −恋人よ 僕は旅立つ。。。
 ラジオから流れるその美しいファルセットを初めて耳にした時、背筋に電流が走った。「いい歌だなあ。」外へ一緒に遊びに出ようとしていた兄が隣で声を上げたのを覚えている。その歌が、前の年「雨だれ」でデビューし、年末のテレビで何度か目にしていた太田裕美の新曲で、大ヒットの兆しを見せていることを知ったのは少し経ってからの事だった。
 それ以来、私は太田裕美を追い続けた。
 その後の太田裕美は、日本のポップス界のひとつのエポックメイキング的な存在であったように思う。(全て正攻法によるものなので、それゆえにその業績はあまり目立たないのだが)以下、思い入れを込めてその業績を振り返ってみたい。

1.ラジオで「ブレイク」
 彼女の登場が新鮮であったのは、今の芸能用語でいう「ブレイク」が、あまりに鮮やかであったことにもよる。当時は歌番組全盛時代だったこともあり、テレビの露出度を高めて売ることは容易であったはずなのに(百恵やキャンディーズのように。)、彼女の場合、地道なラジオ出演が評価されての再登場だった。それはまさしく、曲の良さからくる評価であって、ニューミュージック(当時がフォークと呼ばれていた)のヒットパターンだった。そこが何より新しく感じられたものだ。
 メジャーになる一歩手前の歌手がステップアップのために奇をてらった戦略を仕掛けることは常套手段だが、本人の資質を最良の形で発展させて(彼女の場合はファルセットボイス)、成功に結びつけた、当時としては稀有な例ではなかっただろうか。
 ニューミュージック的と言えば、77年以降、渡辺真知子八神純子竹内まりや等、太田裕美と同傾向のシンガーが次々と成功していく中、よりアイドル的であったために彼女が「歌謡曲」の枠組に押し込められていくことになってしまったのは、残念で仕方がない。

2.アルバム指向
 彼女は最初からアルバムシンガーであった。当時は陽水やユーミンの成功で少しづつ邦楽のリスナーもアルバム指向に変わりつつあったが、ポップス系のアルバムはシングルの寄せ集めが中心だった。そんな中、デビュー当時からシングルと同じペースでオリジナルアルバムをリリースしていたのは驚くべきことだ。
 また、アルバムからのシングルカットが多い(「木綿〜」「九月の雨」「失恋魔術師」等)。今では当り前に行われることだが、当時のポップスシンガーとしては本当に珍しかった。今やマーケットはシングルからアルバムに完全にシフトしているが、スタンスとしてはそれを20年前(※注:10年前の原稿です)に先取りしていたと言える。
 いわゆるゴールデントリオによる粒ぞろいの作品群は、ここ数年のトレンドであるトータルプロデュースの先駆けであり、三者の相性がぴたりとはまっていたからこそ、その作品群には「幅広さ」と「統一感」という相反する要素が含まれており、いまだにファンに愛され続ける鮮度を保ち続ける大きな要因となっている。同時期に全盛を迎えていたトリオとして百恵−宇崎−阿木のトリオがあり、やはり素晴らしい作品群を残しているが、アルバムレベルでのクオリティはゴールデントリオに到底及ばない。
 また、トリオ全盛期において他の多くの作家とのコラボレーション作品を発表し、それらの手法は後期の百恵や、80年代に好盤を連発した松田聖子(二人とも裕美と同じCBSソニーである)の作品作りに多大な影響を与えている。
 太田裕美は、横軸では同時代の百恵に影響を与え、縦軸では80年代の聖子のひな型となった。そして彼女らの大成功を通じて、日本のポップス界全体に影響を及ぼしたことになるのだ。

3.曲の普遍性
 シングルとなった「恋愛遊戯」「青空の翳り」を今一度聴いてみればよい。当時は2曲とも、シングルとしてはアピールに乏しいことから大ヒットに至らなかったが、今改めて聴いてみると驚くほど新鮮な感動がある。日本人のメロディー感覚は、ここ10年ほどで著しく変化し、複雑なリズムやコード進行を持った曲が増えてきた。一方で、洋楽と邦楽の境界が薄れ、米国人が得意とするシンプルなバラードが日本でもヒットするようになってきた。先の2曲は、まるでそれを予見していたかのようでこれをシングル化した彼女とスタッフのセンスと心意気を感じる。

 70年代のスタンダードとなるであろう「木綿のハンカチーフ」。毎年、秋になるとどこかしらで耳にする「九月の雨」。超大衆的な作品を残しながらも、それだけに終わらない、音楽的な懐の深さ、それこそがファンが今なお愛し続ける太田裕美の魅力である。

 うわ「米国人が得意とする」なんて書いちゃってる(汗)。ごめんなさいね。まだ30そこそこの若造だったのよあの頃。思えば今のブログ生活もこの文章がきっかけだったと言えるのかもしれないし。。
 ところで、この「論文コンテスト」の入選賞品は、裕美さんのサイン付き生写真でした。↓この「魂ピリ」のジャケット写真(もちろん焼き増し)でしたよ。本音言えばホントはもっと若い頃の写真が良かったのだけど、おタカラには違いありません、はい。

魂のピリオド

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