いいじゃないの幸せならば

(4月16日 加筆しました。)
 誤解を承知で言いますけどね、ワタシいま、幸せです。
 その“しあわせ”が、社会一般でいう“しあわせ”かどうかは別の話、というか、私にはその一般的な“しあわせ”の意味はわかっていないのかも知れません。
 ワタシの言うところの幸せは、あくまでも、私の心持ちのようなものなのです。ですから、あなたがもしワタシだったら、いまワタシが感じている幸せをあなたは全く感じないかも知れない。そういうハナシです。
 「幸せはいつも 自分のこころがきめる」
 これ、今年の年頭に今とは正反対に少し心が沈んていたときにたまたま見つけた、相田みつをの言葉です。そして春を迎えた頃のワタシはまさにそのような境地に至ったわけで、なんだか笑っちゃいますね、単純すぎて。
 何故、ワタシは幸せなのか。それをあれこれ考えれば、今日ステキな満開の桜が見られたことや、久しぶりに炊きたてのご飯が食べられたこと、昨日友人と会って楽しい時間が過ごせたこと・・・本当にくだらないことばかりなんですが、たぶん一番大きいのは、年齢とともに自分にも他人にも、期待したり要求したりするものが少なくなって来ていることだと思います。シアワセの基準となるハードルが、どんどん低くなっている(笑)。それは“無いもの”を追い求めるより、“いま在るもの”を慈しんだり尊重していくことの方が先決になっていて、(老い先を考えると)そのほうが現実的であるという考えがいつの間に身についてしまっているからなのかもしれません。だから、身辺の小さな嬉しいことが幸福感に直結しやすくなっているのかもと。今更ジタバタしても仕方ない、既にそんな心境なのです。そうしたら、心の平静が保てるようになった。。。少なくとも、ワタシの場合は。
 確かにこうして幸せを感じられるのはもちろん、自分に合う仕事があってそこそこ生きていけるだけの収入があって、住む家(快適な空間)もあって、両親もすでに他界していて(介護の心配がなくて)、独身ならではの自由な時間もあって、おまけにパートナー(のような)関係にある人もいて・・・と、考えてみれば、たしかに今のワタシはそれなりにラッキーな環境にあるのかもしれません。ただ、これさえあくまでも比較のハナシに違いなく、先日もある年配の男性から「ひとりでよく平気でいられるね。俺なんか、自分でメシつくって毎日独りで食ってたら、死んじまうよ!」と言われたばかりだったりします(笑)。それでも、ワタシの方は独りでゆっくりご飯を食べることに小さなシアワセを確かに感じてる訳ですから、シアワセってホント、人それぞれです。。。
 ただ一つ困ったことは、こうして感じる小さな幸せの陰に、必ずつきまとう「罪悪感」です。
 復興の進まない被災地の方々のことを思うときの罪悪感は勿論ありますが、これは“困ること”ではありません。むしろ感じなければいけない種類のものです。
 ここで言う、ワタシが困っている罪悪感とは。。。
「小市民的シアワセに溺れるな!」「現状に甘えるな!」「もっと頑張れ!」「明日は何が起こるかわからないぞ!」「だからもっと頑張れ!」
という正義漢ぶった自分自身の心の声です。それが、シアワセなワタシに罪悪感を抱かせる。果ては、
「人として生まれた責任を果たせ!」なんてことまで言い出す始末(笑)。
 シアワセになるために生きているはずなのに、やっとその尻尾をつかみかけたはずの小さなシアワセを、認めることを許さない、厄介なもの。
 それが、ワタシ自身なのです。
 
 もっと頑張れ!もっと、もっと・・・ああ、やだ。
 
  
・・・ホンネではきっと、心のどこかでこう思っているはずなのです。
「オマエなんかがそう簡単にシアワセになれるはずがない!」
てね。。。
 
いいじゃないの幸せならば」 佐良アニキです。