太田裕美不遇の時代 その1

太田裕美―ゴールデンJ-POP THE BEST
 81年の渡米後、82年に帰国した太田裕美さんは大胆なイメチェンを図った。髪をばっさり切り、製作スタッフもがらりとチェンジしてテクノや(当時の)ニューウェーブサウンドにアプローチした。古くからのファンの多くは衝撃を受け、彼女のもとを去っていった。しかし、ここでいう不遇の時代とは、その頃のことではない。実際、この時代(80年代前半)の彼女は名盤「I Do,You Do」を筆頭に、オリジナリティ溢れる非常にクオリティの高い作品群を発表し、乗りに乗っていたのだ。セールスには結びつかなかったけれど・・・。
 太田裕美、不遇の時代、それは「78年から渡米(80年)まで」だ。その時代を検証してみたいと前から思っていた。不遇に陥る前年、1977年の裕美さんは「しあわせ未満」「九月の雨」を大ヒットさせ、アルバムでは最高傑作『こけてぃっしゅ』の発表と、デビュー3年目の充実期を迎えていた。ところが77年12月発売の「恋人たちの100の偽り」はオリコン最高位27位、売上枚数9万枚と、前作「九月の雨」(最高位7位、36万枚)に比べると惨敗という結果に終わる。背景で見ると78年から79年の歌謡界は、ニューミュージック勢が急成長し、のちにアイドル冬の時代とも言われた時代。そんな中、裕美さんならずとも、従来のスター達がこの頃から一気にベストテン常連から外れていく。郷ひろみ(ハリウッドスキャンダル→78年9月、最高位13位)、野口五郎(送春曲→78年12月、14位)、岩崎宏美(あざやかな場面→78年5月、14位)、桜田淳子追いかけてヨコハマ→78年2月、11位)などだ。いわば70年代アイドルの全盛期が終わったと言える頃。しかし、その中でも、太田裕美さんの失速は突出していたのだ。「恋人たちの100の偽り」は確かにそれまでの裕美さんの曲に比べて平凡な楽曲と言わざるを得ない。しかし突然ランキング30位そこそこの大コケとは、尋常じゃない。一体78年以降の裕美さんに何が起こっていたのか?それが俺にとっては長年の疑問であり、今回のテーマである。
 その頃俺はまだ中学生だったし、当時の裕美さんをめぐる状況は、おぼろげな記憶と、後の文献(ライナーノートなど)を通じて得た情報に過ぎないが、自分なりに整理してみたいと思う。(つづく)