太田裕美アルバム探訪③『海が泣いている』

hiroc-fontana2006-06-25

 78年12月発売。このアルバムはちょっと評価が難しい。俺が初めて買った裕美さんのオリジナルアルバムが、この『海が泣いている』だからだ。つまり、俺の中での太田裕美のアルバムの出発点はこの作品なのである。当時中学生だった俺は、彼女の過去の作品を買う余裕も無く、松本−筒美ラインの最後の作品となったこのアルバムにこそ、太田裕美の魅力が凝縮されていると思ったし、その後にリリースされた作品は少しずつチェックしていたものの、結局『海が泣いている』を越える作品に出会うことはなかった。しかし、90年代に入り「CD選書シリーズ」で裕美さんの過去のアルバムが復刻されたとき、すっかり大人になっていた俺は、迷わずそれらのアルバムをごっそりと「オトナ買い」し、聴き漁った。そして知った。『海は泣いている』は、決して最高作ではなかったのだと。
 いきなり否定的な感想から入ってしまったが、彼女にとっては最初で最後の海外(ロス)録音、そして全編松本隆作詞・筒美京平作曲で固めたこのアルバムのクオリティは高いことに変わりないと思っている。黄金コンビは相変わらずバラエティに富んだ密度の濃い10曲を提供しているし、「スカーレットの毛布」「Nenne」「∞(アンリミテッド)」などアップテンポの曲を中心に、バッキングでは当時の正真正銘のウェストコースト系のサウンドが聴かれ、サウンド的にもグレードアップしている。現地のエンジニアによる録音は音のひとつひとつがクリアで粒立ちが良く、特に裕美さんのボーカルがとてもリアルに聴こえるのがこの作品の特徴である。
 しかし、問題は、裕美さんの声の状態が良くないことなのである。ハイレベルなバッキングに乗る彼女のボーカルが、ミキシングの関係でリアルに聴こえる分、とてもつらい。特に彼女の最大の魅力であるはずのファルセットがかすれてほとんど出ていないのだ。裕美さんが喉を潰したのは、このアルバム発売の1年ほど前。78年2月発売のアルバム『背中あわせのランデブー』は最悪のコンディションで録音された作品だったが、同年夏の『エレガンス』では、美声が復活しているように思われた。しかし、『海が泣いている』での彼女のボーカルは低音ではくぐもり、高音は掠れ、『背中あわせ〜』の頃に逆戻りしてしまっている印象だ。
 おそらくこれは、海外録音で録音日程に制約があったことが原因であろうと思う。彼女の声のコンディションに合わせてレコーディングするほどのスケジュール的・経済的(?)余裕が無かったのではないか。例えば、3曲目に収録されている「茉莉の結婚」は驚くほどキイが高い曲で、全盛期の裕美さんならまだしも、一度喉をつぶした彼女に歌わせるには酷だ。余裕があれば2〜3音キイを下げることも出来たはずなのに、ほとんどファルセットさえ出ないキイで、そのままレコーディングしてしまっているのだ。これ以外にも、かつての裕美さんの美声であれば格段に「活きた」であろう名曲が少なくなく、今思うと本当に残念な1枚である。(とはいえ、こういった感想に至ったのは近年のことなのだが。)
 さて、何やかや言っても良い曲もいっぱい入っているので、思い切って全曲紹介しちゃおうかな。
-「スカーレットの毛布」。オープニングはおしゃれなシティ・ポップス。ベースの音の運びがカッコいい。定番の男女会話の詞で、一夜を共にして初めての朝を迎えた男女が主人公というのがちょっと刺激的。松本氏はこのモチーフを後年、聖子のアルバム『Windy Shadow』の収録曲「マンハッタンでブレックファスト」で再び取り上げている。
-「振り向けばイエスタディ」。シングルカット曲。青春時代を回顧する松本氏お得意の世界をフォーク調のバラードで聴かせる、それまでの太田裕美のイメージを総括したような作品。ストリングスがドラマティックすぎるのが、いかにもアメリカ人好みな感じ。この曲は妙にキイが低くて裕美さんの声が沈んでいる。
-「茉莉の結婚」。学生時代の仲良し4人組。そのうちの一人(茉莉)の結婚式の風景を切り取った歌詞が斬新である。筒美氏のメロディーもウェディングソングそのものと言う感じで、とても美しく清楚だ。ただ残念なのは、裕美さんの声が悲しいほどに、出ていないこと。
-「Nenne」。シャッフル・ビートのロック。喉を潰してからの裕美さんはファルセットが出ない分、中音域で張りのある強い声を出すようになった。この曲ではそんな裕美さんが聴ける。
-「街の雪」。一言で言って「森昌子が歌いそうな」曲。ゴージャスな演奏で聴かせる歌謡曲、というのは、ある意味新鮮かも。演歌チックでも決して下品にならない裕美さんの声の素晴らしさを再認識する曲。
-「海が泣いている」。アルバムタイトル曲は文字通りこのアルバムのベスト曲。寄せては返す波を表現したかのようなメロディー、気持ちが盛り上がってやがて落ち着くところへ落ち着く浜辺の男女を描いた歌詞。静かに盛り上がり、穏やかに収束する詞・曲・アレンジの共時性の見事さは、芸術的でさえある。この曲は松本隆の30周年記念BOX「風街図鑑」にも収録された。
-「ナイーブ」。少しコミカルな味わいのちょっと恥ずかしい歌謡ポップス。良くも悪くも「太田裕美らしい曲」だが、アレンジとバックの演奏によって全体にシャープな仕上がりになっている。
-「水鏡」。絵画的な歌詞とクラシックのような美しいメロディーを持った、瑞々しさに溢れた佳曲。この曲を全盛期の裕美さんの美声で聴けなかったのが悔しい。
-「女優(ヒロイン)」。岩崎宏美さんの曲とは同名異曲。ジャジーで音が上下に飛ぶ難しいメロディーだが、裕美さんはそれをサラリと歌いこなしている。少しハスキーになった彼女の声がこの曲に合っている。
-「∞(アンリミテッド)」。テンポの速い難曲で、裕美さんも一生懸命に歌っているけれど、全体に少し雑な印象を受ける。カッコいい曲なのだけど、裕美さんのフンワリとした声ではどうしてもバックの音に負けてしまう感じがする。そこで気張ってしまったのが雑な印象を受ける原因かも。
 少し長くなったが、決して疎かにはできない、俺の「思い出の1枚」なので、ご容赦を。