「官から民へ」の横暴

 8月23日(水)のNHKテレビ「クローズアップ現代」は「相次ぐ民営化トラブル〜揺れる保育現場〜」という特集だった。自治体の財政難を理由に、全国的な趨勢として、公立保育園が次々と民営化されている。ただし、その民営化があまりに拙速に行なわれるあまり、職員の質の低下・児童の活動中の怪我の増加など現場にシワ寄せが来ている、ということが報告されていた。
 規制緩和で保育園民営化の動きが始まったのは2001年だそうだから、これはコイズミ政権発足以前から準備されていたものかもしれないことを断ったうえで、敢えて言う。「官から民へ」というスローガンを大々的に喧伝し、あたかも民営化すれば全て上手く行くような錯覚を我々国民に抱かせ、行政に都合よく利用させたのは、コイズミだ。そして、行け行けドンドンのまま、それがもたらす「副作用」の検証も無しに、あちこちで乱暴な民営化は進んだ。
 民営化は名目上、競争原理を導入して民間活力を活かし、より効率良く質の高いサービスを利用者に提供することを目的としている。しかし同時に民営化は、民営化の対象となる施設・団体をして、公共の利益を重視する考え方から利潤追求・営利の考え方に方向転換させることを意味する。
 言うまでも無く、公共の利益と民間法人の利潤追求は、必ずしも両立しない。「民間の活力」を導入したが故に起きたに違いない事件、たとえばマンション耐震偽装事件、あるいは市営プール吸水口事故を思い出せば、それは明らかだろう。利潤の追求は裏を返せば際限の無いコスト競争であり、そこでは利用者の安全(公共の利益だ)さえ、「削減できるもの」として軽視されていく。民間の法人の多くはカネ儲けという欲望と、生き残らねばならない厳しい環境の中で、公共の利益という精神を失っていくのだ。
 全てを公営にすればいい、と言うのではない。たとえば保育園も民営化によって時間外保育が拡大するなど、サービスが向上した部分も多いという。9時から5時までのお役所仕事では、それは実現できなかったのは確かだ。
 しかし民営化によって一層の低賃金職場と化さざるを得ないこれら現場の実情を、ご存知だろうか。以前の日記にも書いた通り、俺の職場は社会福祉法人で、公立の福祉施設の運営をしている。とりあえずその現状を記したいと思う。俺が所属する法人では、「弱い人たちを心を込めてお世話する」という尊い使命感に支えられて、多くの非常勤待遇の職員が将来の補償もないまま、低賃金で夜遅くまで働き続けている現状がある。若い情熱があるうちは、それで済む。しかし一定の年齢になると、仕事は厳しくなる反面、一向に向上しない自分の生活とのギャップに苦しみ、多くの人が燃え尽き、この職場から離れていってしまうのだ。それが現実。そして、また若くて安い労働力が入ってくる、その繰り返し。もはや、ノウハウの蓄積など、不可能に近い。それと同じことが、あちこちで起こっている。民営化された公立の福祉施設は、そういった純粋な使命感のみで支えられた低賃金労働者たちによって、かろうじて生き残っているのだ。
 一方、医療・福祉など公共サービス分野での有料化も着々と進んでいる。「小さな政府」。行政側は、できるだけ手を引き、公共の利益さえも民間で担わせ、利用する側は相応の負担をして支えていくということ。行政側は言う。「良質のサービスを提供して、サービスに見合った料金を頂いて、上手な経営をしなさい。」と。年金が収入源であるような人たちから、どれほど料金徴収ができるのか。それによって生活保護の対象となってしまう人が少なくないことをどう担保していくつもりなのか。経営と公共サービスの狭間で法人・事業者が青息吐息なのに、まだ経営努力が足らないというのだろうか?
 それでいいのか?このままでいいのか?民間の活用、市場原理がホントに全てを解決するのか?
 財政がスリム化された小さな政府にするには、特別会計を精算して、米国債買うのをやめて、米軍基地再編にカネを払うのをやめて、議員給与を減らして・・・もっともっと近道があるんじゃない?
 そのような反省や、反省を踏まえた上で国民にとってより良い方向を探ろうという姿勢が、この国の政治には見えない。何もかも、やりっぱなしの、無責任さ。コイズミ政権の5年間で、それが酷くなったのは確かだ。「ポスト確保」のただ一点からアベ支持に雪崩を起こしている自民党議員どもの呆れた行状を見るにつけ、もうこの国の政治は落ちるところまで落ちた、という暗澹たる気持ちにさせられるばかりだ。
 昨日の放送を見て、感じたこと、あれこれ。 
↓こちらの意見に大いに賛同!
http://dr-stonefly.at.webry.info/200608/article_15.html