責任感、そしてプライド

hiroc-fontana2008-05-09

 実はちょっとリアル世界で色々とありまして、更新が止まってしまいました。自分も40代半ばにさしかかり、望む望まざるとに関わらず世間からは歳相応にそれなりの働きを求められます。そんなこんなで、たぶんこれからは今までのようには裕美さんだのセイコさんだの、のほほんとブログばかり書いてはいられなくなりそうな、hiroc-fontanaの近況であります。そこでと言ってはなんですが、今日はこんなマジメなテーマで書かせてもらいます。
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 例えば、私はある上場企業の経理部で長いこと働いていたことがありますが、毎日信じられないほどの金額のお金を動かしたり、あるいは実際に札束を目にしたりしながらも、自分のものではないそれらのお金を決してぞんざいに扱ったりしませんでしたし、ましてや自分のポケットに忍び込ませる、などということは一度たりとも考えたことがありませんでした。
 むしろ、自分のお金ではないからこそ、とても慎重に、丁寧に扱いました。もちろんそこには会計収支を合わせるという職務遂行上の大義がありましたが、それ以上に人様のものをお預かりしているからこそ、それを大切にしなければならない、という責任感が大きくはたらいていたように思います。プライド、と言い換えても良いかもしれません。たとえバカ正直と言われようが、自分の行動には最後まで責任を持って、精一杯の善意で与えられた役割を全うする。そしてそれにプライドを持つ。
 責任感。そしてプライド。
 いま、人々に足りないのは、これなのかなあと思っています。それも、政治家や官僚など、国を動かすべき人々の間から「責任感」というものが急速に失われているような気がしてなりません。(それでいて妙なプライドだけは一人前だったりして。)
・途中で政権を放り出して政局を混乱させながら、議員辞職さえしない前首相がいたり。
消えた年金問題を3月末までにすべて解決すると約束しながら、それを反故にして知らんふりの自民党議員たちがいたり。
・路財源のムダ使いが暴かれても、誰一人裁かれることなく悠々自適のお役人生活を送る国交省官吏たちがいたり。
・インサイダーまがいの投資が明るみに出ても辞任せず任期満了まで居座った前日銀総裁がいたり。
・はたまた、国民生活がいくら苦しくなろうとも何ら手が打てないうえ、支持率が20パーセントを切っても、一向に辞めようとしないフクダ首相とか。
・そして、後期高齢者医療制度という悪法を強行採決した中心人物でありながら、まるで混迷の政局を高みから見物して楽しんでいるかのような「悪の元凶・コイズミ」とか。
 毎日のようにマスコミを賑わすこれらの人物達からは、高貴な倫理観はおろか、責任のセの字さえ伝わってきません。ですが本来、彼らはみな国民の税金によって養われている公僕なのであって、代議士の皆さんは国民が投じた1票によって国民の願いを託されている公の存在なのであって、いわば彼らの「成り立ち」そのものが、すべて国民(ひとさま)からの「託されもの」なのだと思うのです。その責任は甚大なはずです。
 しかし残念なことに彼らには、自分自身が担っている、あるいは担ってきた、社会に対する責任の大きさが全く自覚できていないようなのです。あるいは、彼らは責任感さえ初めから持ち合わせていないような、自己の欲求にのみ支配された(それをプライドと勘違いした)哀れな生き物に過ぎないのかもしれません。社会に対する責任ある存在としての正しい自覚とプライドがあるなら、彼らは自分たちが為してきた行動・言動の責任の重大さにおののき、世間の目から身を隠さずにはいられないはずだと思うのです。(果たして彼らが、少なからず彼らの無責任行動によって引き起こされたのは間違いないところの、ここ数年の日本の惨状を正しく認識できているのか、というと、それも疑わしいハナシではありますが。)
 翻って私たちは、毎日のようにマスコミを賑わす「彼ら」に迎合したり、あるいは現状を諦めて傍観するのではなく、今こそ一人ひとりがこの社会、この国に対して負っている責任感を自ら自覚し、国民としてのプライドを取り戻す努力をしていくことが必要なのではないか、と思うのです。私たちが自覚して、変わっていかなければ、国民を無視した無責任政治・無責任行政は、ますますエスカレートしていくばかりなのではないか、と思うのです。私たちが批判している彼らは、ある面私たちの写し鏡なのかもしれないのです。
 責任感!プライド!これですよ。
 ちなみに、偶然森田さんのホームページでも同じようなエントリーが出ていましたので紹介しておきます。(森田実の言わねばならぬ【313】)