『まあ、いいや。』からの脱却。
「まあ、いいや。」
昔は完璧主義者だった俺だけど(笑)40代に入ってから、「まあ、いいや」が口癖になった。当初は、たとえば大枚はたいて買ったCDが期待ハズレだったり、散髪したあとの髪型が気に入らなかったり、飲み屋でお気に入りの人から冷たくされたり、とかいう小さなエピソードについての感想が「まあ、いいや。」だったのだけど。しかし。40代半ばになったここ最近は、仕事で手痛い失敗をしたりしても、健康面で明らかに良くない兆候が出ても「まあ、いいや。」になってきた。これは正直、良くない傾向だと思い始めていた。
40代のオトコとしては、両親も看取ったし、家のリフォームもして住環境も良くなったし、転職して自分に合う仕事も見つけたし(・・・ゲイとして恋人にも恵まれたし、モテ期も経験したし・・・)何だかね、一般的に人生で経験すべきと言われるようなことはここまで生きてきた中である程度経験したつもりになってて(結婚して子供が欲しい、っていうのはずっと前に諦めたけど)、いわゆる“欲”ってものが段々と薄れてきていたのね。独りだから思い残すものも少なくて、極端に言うと「もう、いつ死んでもいいや。」みたいに思い始めていたのだ。
で、当然それは何につけイイカゲン、よく言えばこだわらない生き方ではあるのだけど、なんだか日々流されていく生活になっていくわけで。そこが、良くないな〜ということは薄っすらと感じていたわけね。
そんな時、つい最近のことなのだけど、懇意にして戴いている、ある年配の女性からこんなことを言われたのね。
「hiroc-fontanaさんって、ホント、冷たいわ。」
これはショックだった。
彼女が言うには、二人の共通の知人に対して俺がとった言動と行動が、とても「お役人的」で「他人事で処理」していて、“人情派”の彼女としては耐え難いものだったらしい。
彼女からガツン、と言われて振り返ってみて、そう言われても仕方ないかも、と思ったのだ。
俺が「いつ死んでもいい。」と思っていた、その裏側には「もう俺は一人でこの人生を終えるのだ。だからもう人からトヤカク言われたくない(他人の干渉は受けたくない)。」という気持ちがあったこと。他人の干渉を受けたくないということはつまり、自分も他人に干渉しない・他人の人生に深入りしない、という態度に何時しか繋がっていたことに、あらためて気付いたのね。そう、俺は他人に冷たかったのだ。
バランスとか、空気を読むことにばかりパワーを使って、その場でベターな結果を導くことばかりに終始していた自分とか。一方で誰かに心底嫌われたり、取り返しのつかないペケをしたりして、人生の汚点を残したくない、というようなイヤらしい考えがあったこととか。そんなことをあれこれ反省して。
彼女の「冷たいわ」の一言が、俺の何かを目覚めさせてくれたのよね。もうちょっと、頑張ってみよう。そんな風に思わせてくれた。感謝。
2010年もまだ、始まったばかりだしね。。。
こんな本にも出会いました。読み始めは“自分の小ささ”に打ちのめされるけれど、歴史上の人物たちのあまりもの破天荒さに、次第に勇気が湧いてくる。↓
- 作者: 福田和也
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/11/01
- メディア: 新書
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