自分のこころがきめる

 今年もまた、大学時代のサークル仲間から新年会に誘われて、出席してきたのね。
 俺、実は学生時代はあまり楽しい思い出が無くて、いや、今思えばたしかに楽しかったのだけど、当時の自分がそれを楽しめるような状態ではなくて、だから、本当はあの頃のことはあまり思い出したくないのよね。(そういう時代を振り返るとどうしても、楽しかった思い出よりもなぜか、辛かったり嫌な思いをしたときのことの方を無意識のうちにセレクトしてしまうのよね。)
 それで、社会人になってからは極力昔の仲間からのお誘いは断っていたのだけど、昨年久しぶりに出席したらそこそこ楽しくて(こちらの日記参照)、今年も誘われたときには条件反射的に「出席するよ」と答えてしまっている自分がいて。
 でもね、いざ出席したらしたで、昔の仲間に囲まれた途端に、あの頃の付き合いベタな自分が急にフラッシュバックしてしまってね。最初はやっぱり本気では楽しめなかった俺がいたのだ。
 みんな、変わってないのだ。びっくりするほど。あれから25年も経つのに。そう、この俺も。本質は変わらないのだ、人間なんて。むしろ、みんな五十路近くなってそれぞれ経験を重ねて、生きることに自信を深めてきたぶん、昔から隠し持っていたそれぞれの個性の中でも強烈な部分が、いまや堰を切ったように溢れ出てきている感じさえする。
 彼らの職業はといえば、放送局の局部長だったり、ある男は大手食品会社の営業部長だったり、別のヤツは親から継いだホテルの支配人になっていたり、今日は出席できないアイツは銀行の海外支店長だったり。。。こいつら、何気にスゴイな、なんて驚いて。こんな奴らの中で、俺、昔からかなり無理してきたのかもしれないな、なんて。ふとそんな思いがよぎったりして。
 そう、だから俺は彼らに会いたくなかったのかも知れない。自分が惨めになりそうで。もちろん、集まった仲間がみんな出世組というわけでは無くて、リストラに遭って子会社で地道に働き続けてる男もいたし、今だに数年単位で仕事を渡り歩いているヤツもいた。。。でもそんな彼らが目を細めながら自分の子供のハナシなんかし始めると、ゲイでいまだに独身の俺はただ笑みを浮かべて頷くくらいしかできなくて。そればかりは正直、羨ましくて、正直、キツかった。
 
 でもね。それでもグラスを重ねるうちにいつの間にかそんな劣等感も薄らいで、まだ皆が同じスタートラインに立ったばかりのあの頃が蘇ったような、和みきった空気に心地よく身を委ねて無邪気に笑っている自分がいた。そう、去年と同じ。
 それぞれが自分の進むべき道を歩んでいるわけだから、職業や地位を比べて優劣をつけても意味がない。それはわかりきったこと。それに今、俺はまぎれもなく“他にどこにもいない俺”を生きているわけでね。久しぶりに会った彼らを含め、これまでの47年の間に出会っては別れて、そうして築き上げてきたさまざまな繋がりの中で今の俺が出来上がっているのだよね。今の俺の小さくも動かしがたい“居場所”は確かに、ある。。。そう考えれば、この人生を否定してしまったら何だか勿体ないよな、なんて気がしてね。

 あ、そうか、去年の同窓会もこんなふうに葛藤していたのだっけ。本当にいつまでも成長できない俺なのだ。4度目の年男だっていうのに。
 
 ところで先週、有楽町の「相田みつを美術館」に行って、お土産にガチャガチャをやったら(笑)こんなのが出てきた。
 こっ恥ずかしいけれど、50がらみの男が更に前を向いて生きていくには、こんな言葉が必要かな。やっぱり(苦笑)