中島みゆき『常夜灯』

常夜灯

常夜灯

(今回はつい熱が入って「論文調」になってしまいました(汗)。読みにくい点予めお詫びしておきます。ゴメンナサイ。)
 
 今年も届いたみゆきさんからのメッセージ。この作品を聴いて、この人がいまだに年一枚のペースで、このような質の高い作品を発表し続けていることが奇跡のように思えてきた。
 みゆきさんは、紛うことない芸術家“アーティスト”だ。その作品は、時代時代の空気を強く匂わせながらも、一方で普遍的であり、時空を超越して何度もの反芻に耐え得る「強さ」がある。特に近年は、象徴的或いは抽象的な表現を意識的に用いながら、作品を通じて人々の感性に挑みかかるような勢いさえ感じる。初めはゴツゴツと荒削りなインパクトを与えるその詞(ことば)たちはしかし、聴き込み、噛みしめるほどに様ざまなイメージ・解釈を呼び起こし、やがてそれぞれの心に、それぞれに合った形でストン、と落ちていく。またはたとえそれに失敗したとしても、少なくともある程度の時間をかけてジワジワと心に染み込んでくる。
 それは、「抽象画」或いは「書」の世界に通じるのではないか、そんな気もする。作家が白紙にぶつけた観念の世界を、受け手がそれぞれの解釈で汲み取り、味わうことで成り立つ関係。そこでは作家の思いを的確に捉える者もいれば、身勝手な解釈で楽しむ者もいる。本来、芸術作品に対する捉え方は人それぞれで構わないはずで、肝心なことは、表現手段や様式に制約されながらも、どれだけ多くの感動(つまりは感性の動き)を人々に呼び覚ます(強さを持つ)作品であるか、ということだ。
 その意味では、よく言われるアレンジやメロディーのワンパターンさなど、もはや中島みゆきを語る上では何ら意味を為さないのかもしれない。必要なのはまず、詞(ことば)なのだ。
 本作『常夜灯』は、まさにそんな作品。
 タイトル曲「常夜灯」。

あの人が消し忘れて行った 常夜灯が
点いているから あたし泣かないわ

この主人公は、去ってしまった人のぬくもりを思い出に生きているのかもしれない。(ふと、被災地の人々に思いを馳せる。)しかし、3コーラス目。夜の底で独り、目を覚ました主人公は愕然とする。

誰もいない 音もしない 風も動かない
カーテンの隙間から細い光が伏せている
あの人が消し忘れて行った 消し忘れていった
常夜灯が点いているから
 あたし哀しいわ
       「常夜灯」中島みゆき

 ふと我に返ったときの、この底知れぬ孤独。“常夜灯”という幻想が、幻想でしかなかった、という現実が否応なく迫って来たときの、その恐ろしさ。わかる人にはわかるのだろう。なんとも、容赦ない結末。そう、思い出は、孤独を甘やかすだけ、なのだ(椎名林檎の言葉を借りればね)。
 ラスト曲「月はそこにいる」。

逃げ場所を探していたのかもしれない
怖いもの見たさでいたのかもしれない
あてもなく砂漠に佇んでいた
思いがけぬ寒さに震えていた

無謀な冒険を繰り返していた若い頃の自分。歳月が、自分を大人にした。そして。

日々の始末に汲汲として また1日を閉じかけて
ふと 立ちすくむ
凛然と月は輝く そこにいて月は輝く
私ごときで月は変わらない
     「月はそこにいる」中島みゆき

自分というものの小ささに呆れ、諦め、しかし心の奥底にまだ、チロチロと燃えくすぶる何かを抱えるこのやりきれなさ。ただ呆然と月を見るばかりのちっぽけな人間が、ここにもひとり、いる。常に変わらぬ月の照らし出す「無常」が、この歌の中では「無情」として私には聴こえてくるのだ。。。
 
 『I Love You、答えてくれ』や前作『荒野より』がどちらかというとロックテイストを全面に出した「動」的作品とすれば、今回は1982年の名作『寒水魚』にも通じる、みゆきさんの慈愛に満ちた優しい歌声が強調された「静」的印象の作品。オープニングを飾るジャズ・タッチのタイトル曲「常夜灯」をはじめ、音数の少ないアレンジをバックにしっとりと歌うバラード「ピアニシモ」、ゆったりとスウィングする「あなた恋していないでしょ」などで聴けるウィスパー気味に軽く抜いた歌声は、還暦を迎えた(失礼!)シンガーとは思えない艶があり、『寒水魚』をリリースした30年前とほとんど変わっていない気がする。そこにオドロキを禁じ得ないのだ。彼女が産み出す作品のみならず、中島みゆきという人、そのものの「強さ」を、却ってこの「変わらぬ優しい声」から感じずにおれない。
 2014年にはデビュー40周年を迎えるみゆきさん。まだまだ精力的に活動を続けていくことは間違いなく、これほどのキャリアを持つアーティストがこのペースで活動を続けているということは、世界を見渡しても稀有な存在であることは確かだ。彼女の音楽に出会えたことに、改めて感謝。
(※11月10日 一部加筆修正しました。)