やせがまん

 最近わたし、自分が「やせ我慢」ばかりしているな、と感じることが多くて、そんな自分がイヤでイヤでたまりません。
 「我慢」ではなくて「やせ我慢」。
 辞書には「やせ我慢: 無理に我慢して、平気を装うこと」とあります。つまりそれは、やむを得ない必要最低限の我慢ではなく、必要のない無理な我慢です。
 普段、クールだとか、冷静だとか、言われることが多い私。しかしその心の奥では、さまざまな欲望や喜怒哀楽の感情が渦巻いているのですが、それをなるべく表に出さないことが“善”であり“理想”であると、これまで無意識に自分に言い聞かせてきた自分がいました。そしてそれが、いつの間にか私の性格そのものになっていました。
 自分の感情のままに笑ったり怒ったり、本当はすべてを出せれば良いのですけど、その場の空気だとか、自分の立ち位置だとか、そういうことを先に考えてしまう性分に成ってしまったわけで、そうすると結局は、何も気持ちを出せない・発信できない自分がいるのです。ですから他人には「クール」に見えるのでしょう。
 「やせ我慢」と言えば、私達の世代が思い出すのは、作詞家・阿久悠さん。ジュリーの大ヒット曲「勝手にしやがれ」の歌詞で、女性が部屋から出ていく音だけを“壁際に寝返り打って 背中で聞いている”、そして“さよならと言うのもなぜかシラけた感じだし”“あばよとさらりと送ってみるか”そんな世界です。本当は“別れたくない、一緒にいてくれ”と言いたいにもかかわらず。それが男の美学・ダンディズムとして通った時代は良かったのですが、しかしその阿久悠さんでさえ、数年後には“ボギー、ボギー あんたの時代は良かった”とそんな時代がすっかり過去のものになったことを認めてしまったりするわけです。
 さらに遡ると、私の大好きな作家・向田邦子さんの描く古き良き時代の家族像の中に描かれる父親像も、「やせ我慢」の極致だったように思えてきます。家長たるもの、その威厳を保つために、喜怒哀楽の“怒”以外の感情は滅多に表に出さず、家族もそんな父親の“役割”と、それを演じることの“辛さ”を自然に理解しながら、「やせ我慢」する父親をさりげなく立てることが出来ていたように見えます。いわばそれが、かつての日本のルールだったのですね。
 2013年のいま、社会は成熟し成長カーブが緩やかになるなかで、価値観が多様化して選択肢も増え、自分にとことん素直に、自己主張していく姿勢こそが尊ばれる「個性」の時代になりました。「やせ我慢」することなど最早、馬鹿げた無駄な努力でしかありません。
 しかし私は今だ、無駄な努力でしかない「やせ我慢」にがんじがらめになっているのです。そして私のそれは、自分がゲイであることと深く結びついているような気もしているのです。ゲイであることを他者に覚られないようにする“感情の封印”と、多少のことでは動揺しない信頼のおける存在に“見せかけるため”、この二つの理由からの「やせ我慢」です。決して格好良いものではありませんし、そのおかげで損ばかりしているような気もしています。今日も、仕事上断れずに、(一応)管理職である身として、したくもないご挨拶回りをしてきました。心ここにあらずの、柔らかな愛想笑いとともに。

 でも本当は、そんな自分が嫌いでもないのですよ・・・なんて。またもややせ我慢を一発カマして、また一日が過ぎてゆくわけです。
 もし、生まれ変われるなら、来世は絶対に、陽気なラテン系に生まれ変わるぞ!そして、感情と欲望のおもむくままに生きてやる!!なんて。最後くらいは、笑い話で締めましょうかね。