「ノドモトすぎれば・・。」或は「ツワモノどもが・・。」そんなモンよ

 ワタシの職場は半官半民のようなものなので、定期的にお役所の監査が入るのよね。
 でも、監査とは言っても、いわゆる査察とか家宅捜索とは違って、ワタシたちを“しょっ引く”(笑)為に調べるのでは無くて、まあ、お役所としてはお役所の「フランチャイズ店」が、決められたルールの通りやっているか?を調べるようなものなのね。
 むしろ、一部コンビニの“フランチャイズ制度”で囁かれているように、売り上げが未達だと“コッテリ絞られる…”なんてことが無いぶん、もしかするとフランチャイズより楽なんだと思う。
 でもね、職場にはその監査の知らせが入るとそれだけで大騒ぎになっちゃう輩が多いのです。その結果、やれ「監査が近いから会議の書記は勘弁して下さい」だの、やれ「監査準備があるので書類の締め切りを伸ばして下さい」だの、中には「明日、監査だから代わりに研修会に出てください」なんてことも平気で言ってくる。そんなアンタが、少しでもデキるようになるための研修なのに、アンタが出なくてどうする?というハナシです。
 そうした騒ぎを見るたび俺、「あなた!監査にそんなに怯えて、じゃあ伺いますけどね、普段どれだけいい加減な仕事してたわけ?」と思わず口を突いて出そうになるのだけど、それを飲みこんで、こう言うわけです。
「大変ですねー。でも、監査では普段気づかないところをキチンと監査員に見てもらって、アドバイスをもらうチャンスなのだ、くらいの気持ちでいた方が楽かもしれないですよ。」って。
 完璧に準備して、監査員から高評価を受けたい。それはわかる。
 重箱の隅を突かれたようなイチャモンをつけられるのは不快極まりない。それもわかる。
 しかし。
 たかが監査員に褒められたとして、はたまた、罵倒されたとして、それがナンボのもんじゃっ!!どんだけ〜!?
てなもん(笑)で、それがワタシの心の声。いえいえ、間違っても監査員に罵倒なんてされないし・・・。
 そんな風に世の中、少し冷静になって考えれば何てこと無いことなのに、 無駄に大騒ぎし、焦り、怒り、悲しみ、苦しみ、そうして自らストレスを招いている人たちの、なんと多いことか。(ボーっと生きてんじゃねえよ!byチコ)
 それは全て、未知なる未来への、根拠のない恐怖、それに尽きるのかな、なんて思うのだ。
 わからないから、否、分かろうとしないから、つまり自分の頭で考えようとしないから、簡単に拒否反応を示してしまう。あるいは逆に、言われたままに回りに迎合してしまうのだ。たぶん。
 監査を前にして大騒ぎする同僚たちは、監査内容そのものよりも、「監査」=「大変なこと」、と言う上司・先輩たちからの根拠ない刷り込みによって、あるいは「監査」=「家宅捜査」=「しょっ引かれる?」といった風な、ニュース番組からのマイナスの刷り込みによって、条件反射で騒いでいるに過ぎないのだと思うのよね。
 だから伝家の宝刀のようにそれを言い訳にして、あれはできない、これもできない、その前にこれをしないといけない、あげくには、だからあなたも同意して協力しなさい!と何のギモンもなくシャーシャーと言えてしまうわけですね。付き合いきれませんわ、ったく。

 見回せば世の中、そんなことばかりのような気もします。
 例えば、エラい与党の重鎮が「LGBTは気持ち悪い。風紀を乱し、果ては国体を危うくする。」とかいうのも、そう。
 自分の身内にLGBT当事者いるかもしれない(たとえば自分の息子や娘にねっ!)とか、相手も人間であって、その発言によって傷ついているかもしれないとか、その軽率な発言ひとつで自分の方がケイベツされているかもしれないとか、そんな事には考えも及ばないわけですね。
 ただ単純に「自分には理解できない事だから」というそれだけで「拒絶」してフタをしてしまう。得体の知れない未知なるものとして、「恐れ(怖れ・虞・懼れ)」を抱いてしまう。結果、国体・国家を守るといいながら、守るべきこの国の伝統である“歌舞伎界”に“女形”という存在が大切に・脈々と受け継がれてきていることさえ無視して「風紀が乱れるから許せない」なんて事を言えてしまったりするわけですね。その時点で、何も考えていないのだと思うのです。
 
 ワタシたちは、放っておくと自分に都合がいいようにだけ、世の中を見ようとしてしまうもの。
 そして、あまり考えもせずに拒否したり・迎合したりして、日々をやり過ごしてしまいがちなもの。
 でもその裏側にあるものは、未知なるものへの根拠ない恐怖心だけだったりする。
 それを迎え入れる寛容さと勇気が少し、足りないだけだったりする。
 それを自覚するために、胸騒ぎを覚えたらまずひと呼吸おいて立ち止まり、この気持ちは本当に自分のものなのか、どこから来ているのか、それを考えていく幾ばくかの努力を持ち続けていきたい、なんて考える、今日このごろ。