太田裕美不遇の時代 最終章

 1977年7月発売のアルバム『こけてぃっしゅ』は、5月末の先行シングル「恋愛遊戯」に代表されるように、ポップで乾いたサウンドが全編に貫かれており、今聴いても非常にみずみずしさに溢れた傑作だ。このアルバムでは2ヵ月後にシングルカットされる「九月の雨」が唯一、歌謡曲路線で異彩を放っている。77年は彼女にとって、それまでのアコースティック・フォーク路線から、ポップスそして歌謡曲路線へと新たな展開を見せた年であった。さて、太田裕美不遇の時代の幕開けについて、まとめである。
この頃の太田裕美さんにまつわる象徴的な出来事を整理する。
①傑作ポップアルバム『こけてぃっしゅ』発売。77年7月。
②「九月の雨」シングルカット。77年9月。オリコン最高位7位。
③喉を痛める。77年秋頃(詳細は不明)。
④「恋人たちの100の偽り」発売。77年12月。オリコン最高位27位。
⑤ニューミュージックブーム到来。78年初頭。
この流れの中で、78年を境に太田裕美さんが長い低迷に入った理由を推理してみる。
まず①、このアルバムにおいて、ゴールデントリオ(筒美京平松本隆太田裕美)は或る程度の完成を見たように思う。そして、評判の良かったアルバムの1曲をシングルカット(②)し、大ヒットさせる。そんな中彼女は喉を潰してしまったが(③)、7月のアルバム以降、実質上新曲リリースがなかった(九月の雨はリカットシングル)ため、次の作品作りとレコーディングが急がれた。そして彼女の喉の調子と折り合いをつけて何とかリリースに漕ぎ着けたのが「恋人たちの100の偽り」(④)。しかし、その新曲はアルバム『こけてぃっしゅ』まで右上がりに完成度を上げてきたゴールデントリオの作品としては、不本意ながら1歩も2歩も後退した作品とならざるを得なかった。彼女の声が万全でなかったからだ。時代は、彼女がテレビの歌番組で「九月の雨」を歌っている間に着実に新しい波(⑤)が押し寄せ、シンガー太田裕美にもその波に乗ることを迫っていた。しかし、当時の太田裕美さんは、作品的にも、肉体的にも、立ち止まらずを得ない状況にいたのだ。そして、無常にも時代は彼女をとり残してしまった。アーティスト「太田裕美」ではなく、歌謡曲歌手「太田裕美」のままで。78年頃に俺が裕美さんに感じた「急激な色褪せ感」は、「恋人たちの100の偽り」の大コケとして形となる。吉田拓郎と組んだ次のアルバム『背中あわせのランデブー』(78年2月発売)では、もはや手遅れだったのである。
 それが、77年から78年にかけての「太田裕美 不遇の時代の幕開け」だった。
 その後、彼女は78年一杯をもってゴールデントリオと決別し、ヒットチャートとは別な次元で、ニューミュージック系の新進アーティストたちと組みながら、地道に新しい方向を模索していくことになる。幸いそれがコアなファンには根強く支持されていたことは、アルバムチャートでの着実な成績からもわかることだが、決定打がないままに、80年代の次世代アイドルブームの陰で彼女はアメリカに旅立っていくことになる。君と歩いた青春
(終わり。)